閉じる
時の言葉
Word at time

2018年9月 罪障消滅

蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取ることは自然の摂理であり、この摂理は人為的に変えることはできない。正法はこうした自然の原則をもとに循環されていくので、私たちの生活もまたこれから外れることはないのである。

ところが、信仰が他力的となり様々な宗教が派生してくると、決まって先祖供養が罪障消滅の理由づけになったり、ひどいものになると教祖が信者の罪障を肩代わりして救ってくれるというのまであるようだ。これはいったいどういうことなのだろう。

人の業をかぶる、人の罪障を背負うということが人間の魂において可能なのかどうか。おそらく、そういう宗教家は、人間の本質を知らないばかりか、自然の仕組みというものを認識していないためにそのように考えるのではあるまいか。

 

人間の心|魂は、それぞれ小宇宙をつくっている。天を仰いで大宇宙の広さを感ずるのは、大宇宙の広さを知っているからであり、大宇宙に感応できる心があるからそう思うのである。また、大宇宙の広さを理解できるのは、自分という存在があるからであり、自分という存在がなければ、大宇宙さえ認めることができないではないか。これを換言すれば、宇宙は自分であり、生きているのは自分しか本来ないのである。

 

こうみてくると、蒔いた種は刈り取るということが理解され、一方において、人の業をかぶる、人の罪を背負うということが、いかに人間の本性から逸脱しているかが納得されよう。

もっとも、人の心は以心伝心といって、他に伝わっていき、人の悲しみが自分の苦しみにつながる場合もある。あるいは、人の罪を背負って犠牲を払うこともあろう。ところが、人の悲しみや罪を背負ったとしても、やはり、肩代わりはできないものなのだ。人に罪を着せても、悲しみを他に移しても、本人の心は少しも安まらないばかりか、すべてはもともと自分という宇宙の中の出来事なので、自分で処理しなければならないからだ。

 

人の業をかぶって病気をするとすれば、戦争を職業とする世の将軍たちや反対派の憎しみを常に受けている為政者は、みんな半病人になって野垂れ死にするはずである。ところが、現実はそうではなく彼等はいたって元気である。こうみてくると、業はかぶるのではなく自分がつくるものである。信者の業を教祖が背負い、そのため重病に陥り、信者が安心立命するなどということがいかに真実から離れているかが分かろう。

騙されてはいけない。

自分を救う者は自分しかいないことを――。

 

(一九七四年十一月掲載分)

高橋信次先生ご講演DVD 注文書

高橋信次先生のご講演DVDを販売いたしております。
「詳細はこちら」のボタンよりPDFを開いて頂き、
必要事項を記入の上FAXにて送信下さい。

高橋信次先生ご講演CD 注文書

高橋信次先生を関西本部に御招待した1971年10月の初回講演からの関西本部でのご講演をCD集として今後まとめてまいります。
「詳細はこちら」のボタンよりPDFを開いて頂き、必要事項を記入の上FAXにて送信下さい。