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時の言葉
Word at time

2019年11月 出家と悟り

一部の間に出家に対する渇望のようなものがあって、インド時代と現代とを比較する向きが多いようである。二千五百有余年前は仕事や家庭を捨てて出家したのに、現代は在家の修行であるため、容易に自分が悟れぬということらしい。

確かに、在家の場合は家庭や社会に対する責任や義務の問題が心をしばり、出家は身軽で自分だけのことを考えれば済むからであろう。ことに人間は環境に流される性質を持っているので、心をしばる諸々のわずらわしさから逃れたいと誰しも思う。だが、よく考えて欲しい。人間は社会的生物なのだ。社会を離れて人間の生活はなく、だいいちそれでは生きる資格すらないだろう。悟るということは終局的には個人と全体とのつながりを知り、それにもとづいた生活行為をいうのだ。社会生活からはみ出して個と全の関係を知ったとしてもそれは本物とはいえない。その関係を理解し社会生活の中で生かさなければ何にもならないからだ。

 

インド時代の出家にはさまざまな理由があった。まず当時は戦乱の時代で今日のように治安が保たれた家庭生活を営むことがむずかしかった。この点、武士も商人も農民についても皆同じで、いつその生活を追われ一家離散の憂き目をみるか計り知れなかった。このため家庭を持つよりは独身で、一般生活よりは出家によって身も守り安らぎを求めた。しかも当時はサロモン、サマナー(僧)に対する畏敬の念が強かった。それは僧は平和の使いであり民衆に幸福をもたらすという思想があったので、カースト制度の頂点に僧の位置がおかれていたのである。山に入れば果物や野草が食を満たしてくれたし、世俗の願望を絶つ者は皆出家し、サマナーとして厳しい修行に身を投じていったわけである。こうしたことから出家は男子のみとは限らず、女子も出家した。釈迦教団が女子の出家を認めたのも、こうした社会的事情があったからである。出家の目的は己一個の悟りだけではない。在家の人たちに積極的にその神理を伝えてゆくことにあった。決して山にこもって俗世間から隔離し、仙人の生活に終始したわけではない。釈迦教団にあっては伝道が大きな仕事であった。

 

今日の時代は前述のように出家の必要はないし、家庭や社会生活の中で己を悟り調和した世界をつくってゆくことにある。出家の本来の意味は物理的に家を捨てることではなく、五官六根に翻弄されぬ調和された心とそれに基づく日常生活の行為の中にあるということを知って欲しい。

 

(一九七四年十月掲載分)

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