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時の言葉
Word at time

2020年08月 神と仏

神とは大宇宙を支配する大意識のことである。森羅万象ことごとく、この大意識を離れては存在しない。太陽も地球も人間も素粒子も、すべてこの大意識の経綸のなかで生かされ、生きている。仏とは、それでは何を意味するかと言えば、神の大意識と不離一体となった人間の悟りの境涯を言うのである。したがって不離一体という意味において、大悟の心境は神と言えるかも知れない。モーゼやイエスは、さまざまな奇跡を起こし、人々を救い、導いた。しかしながら肉体を持った人間は、仮に大悟を得たとしても、神になることはできないのである。なぜかというと、物質界には物質界の法則があって、その法則の枠を超えることができないからである。その枠とは意識の枠である。物質界は人間の意識を含めて、10%の意識によって成り立っている。波動の荒い世界である。100%の意識のうち10%の意識しか働いていないのである。そのために、四次元以降多次元の世界を見ることも覗くことも普通はできない。そうした環境のなかで万物は修行するのである。人間はその心境に応じて霊道が開かれ、10%の意識の枠が、20なり30に発展させることができる。如来の悟りを得ると、その求めに応じて何でも認識することができるが、二十四時間そうしているわけにはゆかない。それは、こちらにはこちらの生活があるし、四六時中霊道を働かし続けるわけにはゆかないからである。したがって、大悟し、神の意識に同通したと言っても、万物を生かし続ける神そのものには、肉体がある限り、できない相談なのである。仏という名称はこうした意味で使われているわけである。

 

巷間、至る所で神人が輩出し、我こそはと言って、多くの信者を抱えているが、そんなことはない。霊視や霊聴ができ、奇跡を起こしても神にはなれない。霊視、霊聴にも段階がある。神理についても同じである。巷間の神人?が説いているその内容が、文証、理証として通用するかどうか、それも問題である。大事なことは、文証、理証が裏付けられ、現証がなされ、さらには教祖と称する人の生活行為がどうであるかである。

 

正法は神や聖人をつくるためではない。正法は悟るためにあるのである。悟りとは、己の過失なり欠点を修正し、二度と同じことを繰り返さない想念と行為を意味する。その悟りの積み重ねが、やがて大悟につながり、一切の執着から離れ、煩悩に振り回されぬ心境に到達できるのである。一つひとつの悟りは己の調和を意味し、地上の大調和に欠くことのできない核となってゆくのである。

 

神・仏とは以上のような意味を持ち、正法の目的は仏へのたゆまぬ精進にあると言えるのである。

 

(一九七二年九月掲載分)

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