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時の言葉
Word at time

2020年09月 正法と道徳

古代社会は社会生活の規範が宗教上の信仰と深く結びついていた。自我の意識が薄く、生活そのものが団体的であったから、そうした規範に違反する者は少なかった。制度が分化し、個人意識が高まってくると、経済生活が複雑となり、個人間の衝突が起こってくる。そこで、共同生活の秩序を保つために、社会生活の準則、いわゆる道徳が生まれた。他人に危害を加えたり、他人のものを奪ったりすることは悪いことだという人間としての良心、義務の観念が、宗教上の信仰から分化し、発生してきた。今日の法律はこうした道徳が基礎となり、社会の調和を目的として確立されてきたといえよう。

この意味で、法律は人々の意にもとづいた菩薩心の現れであり、なかば強制を伴うが、道徳は、良心に裏打ちされているといえる。

 

正法と道徳は、もともと一つのものか、それとも、ちがいはあるのか、というのが今回のテーマであるが、前述の信仰、道徳、法律の沿革をみてくると、ちがいはどこにもない、といえる。他人のものを奪ったり、危害を加えたりすることは、正法にも反するからである。

 

だがしかし――、道徳はもともと人間としての義務観、良心が柱になっている。法律が社会的規制を強いるものなら、道徳は、良心による制約である。

ところが、正法の極地になってくるとどうなるだろう。

「汝らの欲するところ、これを人に施せ」

「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」

これは、キリストの言葉である。人によって、その解釈の範囲がちがってくるだろう。道徳といわれる物差しでは、この意味を理解することはむずかしくなってくる。

 

キリストも釈迦も、自他の観念で、慈悲や愛を説いたのではない。自分の中に大宇宙を発見していたのである。肉体の自分と、もう一人の自分を知っていた。もう一人の自分は全なる自分であった。他人と自分の区別はそこにはない。人を憎むことは天に向かってツバするのと同じことになるのだ。他人はいないのだ。全部自分である。しかし、現れの世界では、他人と自分は別々に存在する。だから、その表現は、相対的な言い回しになってくる。

「汝らの天の全きがごとく、汝らも全かれ」

もうこうなると、正法の何たるかが明らかであろう。

 

道徳は、こうした自他一体の悟りを基点として培養され、相対的な観念を軸に、横に広がったといえる。正法と道徳は別物ではないが、しかし道徳は社会生活の規範であるのに対し、正法はその規範を超えた神の心であるといえよう。

 

(一九七三年四月掲載分)

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