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高橋信次先生講演
Lecture

道について(4)

(前号より)

 

我々は、すべて自然の恵まれた環境の中に育っています。その自然の恵みに対する感謝の心を行為として、人々に尽くす道を、また自然は教えてくれているのです。

同時に、両親は私たちを産んで育ててくれました。それに対する感謝の心は、神の子として、お互いに親孝行するということは人間として当然の道なのですが、それがわからなくなってしまったのが現在です。

自然界は、すべて人間の在り方を教えているにもかかわらず、ただ祈れば救われると、人間の脳細胞まで狂わせてしまった。宗教はアヘンと化してしまったのです。思想というものは恐ろしいものです。

 

あの世(実在界)では、決して曼荼羅や仏像などは祀ってはおりません。初期のイエス・キリストの時代においても、あるいはその前のゴーダマ・シッタルダー(釈迦)が神理を説いた当時にも、依然として旧来からの古い一つの宗教環境がありました。

ゴーダマ・シッタルダーの当時には、ヴェダーやウパニッシャド、すなわち、バラモンを中心として多くの宗派が乱立しています。そして、バフラマン(梵天)、インドラー(帝釈天)など、そのようなものを神と崇め、偶像崇拝が非常に盛んでした。また、ヨギー・ストラーと言いまして、山中に入り、肉体的荒行をしたり、自分の雑念を無くそうとして禅定をし、神に到達したというような間違った道を踏んだ人たちが非常に多いのです。

しかし、そんな時代においてゴーダマ・シッタルダーは、人間の生きていく上において、正しく語ること、聞くこと、そして、自分自身が正しく見ること、正しく仕事をすること、という片寄らない八正道の道を人間が実践した時に、心の曇りが晴れていくと説いたのです。その晴れた状態で、自分自身の日々の生活を積み重ねていけば、心の中は精妙になり、自由に次元を超えた世界と交渉を持つことができます。

 

逆に、禅定三昧とか言って肉体行だけで煩悩を滅しようとするが、心の中では何を考えているかわからない。こういう状態で禅定をしますと心の針は一念三千ですから、どちらに向いてしまうかわかりません。不調和な世界に通じてしまいます。 現代、問題となっているスモッグも、太陽の熱が強くなれば当然そこには光化学スモッグというような、一つの新しい現象が起こってきます。と同じように、禅定だけで人間は救われるのでもなく、調和されるものでもありません。一秒一秒の正しい中道に基づいた生活を行い、これが積み重ねられた時に人々の心というものの窓が開かれていくのです。当然のことながら、アラハンの境地にもなっていきます。

 

そして、アボロキティ・シュバラーと言われる観自在菩薩の境地にもなっていくのです。その観自在菩薩と称する境地も、実は永遠の転生輪廻を繰り返してきている今までの積み重ねられたところのキャパシティー(容量・受容力・能力)によって違ってくるのです。過去において、でたらめ三昧をやって地獄に堕ち、地獄界において自分自身神の子としての自覚を得て天上界へ行きます。その天上界で、五百年、千年、自分自身というものの心の状態を反省し、神の子としての道に到達して修行をします。けれども、そういう状態が繰り返されている人々は、なかなかアボロキティ・シュバラーの境地になることは出来ません。

こうして我々自身は、仏教を通してもキリスト教を通しても、一番根本にあるのは偶像崇拝ではないということを知らなければなりません。大事なのは、人間自身の肉体と共にある光子体になっているところの人生航路の乗り舟の船頭さんである、すなわち魂、その中心である心というものの在り方を教えているのです。

 

インド時代のゴーダマ・シッタルダーは、二十九歳の時に家庭を捨て、六年間も山中に入って苦しい修行をし、人生というものを悟っていきます。そして、慈悲という偉大なるものを説きました。しかし、愛ということを説かなかったのです。

その後、約二十数年遅れて、ベンシャラーという男が出まして、愛という道を説いていきます。皆さんがよくご存知の大日如来です。さらにそれでも足りなくて、一世紀にガレリア地方に生まれたイエス・キリストという男が、愛という道を説いていきます。

愛と慈悲は十文字です。慈悲というものは大自然を通して大きく広がり、愛というものは横に広がるところの、調和されたものでなければならないのです。こうして、イエスにしても釈迦にしても、人間の心と行いというものの在り方の規準、その道を説いていったのです。

 

しかし我々は、そういうことがいつの間にかわからなくなって、一生懸命にお経を唱えることに専念してしまったのです。この地上界というのは、地獄と天国がミックスされた世界ですから、そうすることによって違うところから霊的な現象が出てきます。次元を超えた世界からは自由にこの地上界を見ることも出来ますし、来ることも出来るのです。

全然わからないから、これが良いと思えば一生懸命に拝み、どこどこの神々で、霊験あらたかだといえば崇拝してしまいます。我々の心というものが、正しい道を知っていないために盲目になり、それが、狐か狸か何かわからないにもかかわらず、そういうものが信心の対象になり現象が出てきます。そこにまた一つの新興宗教が出来上がってきます。

動物霊であっても少しぐらいの病気なら治すことが出来ます。しかし、本来心という問題に対することに彼らは触れることは出来ないのです。イエスや釈迦のように、人間自身の普遍的な正しい神理という道を説いてはおりません。自分自身の心というものはわかりませんから、一生懸命に手を合わせて拝んでいるうちに、神のお告げだと言って出てまいります。そうすると、皆さんは盲目になっているのですから、神様が降りてきたと思うのです。しかし、残念なことに、その人自身が神と全く同じ状態の心と行いを実践していない限り、降りてくるはずがありません。

 

私のところで作っているコンピュータというものは、あらゆる計算を通してデーターが出てきます。そのコンピュータ自身も、最初に与えた計算だけは確実にやります。人間のように、勝手に自分で考えたり感情を持ったりしていませんから、スイッチさえ入れればきちんと計算してくれます。このように、機械と人間の違いというものはそこにあるのです。

しかし、人間自身にも心の調和の状態によるレベルがあります。皆さんは仏像を知っているでしょう。おそらく心の眼を開いた人たちがああいう物を造っているはずです。菩薩という仏像を見ると、たいてい頭のところに後光が出ています。如来になりますとその後光がさらに大きくなります。これは、その人の心の状態、調和の状態に光が比例しているのです。

皆さんの肉体の後ろに出ているところの光はそれぞれ誰からも出ているのです。ただ、恨み、妬み、そしり、怒り、こういう心を常に持っている人たちは、その光を消してしまっています。心が調和されてきて、常日頃、思うことと行うことが正しい神の道に適った生活をしている人たちには、ちゃんとその後光が出ています。その光の量も、自分の心の調和された状態に応じて違っています。

 

(次号に続く)
この稿は、昭和47年12月10日、関西本部定例講演会での内容をテープより書き起こしたもので、一部加筆・修正を加えてあります。  〈文責=編集部〉

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