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時の言葉
Word at time

2016年12月 愛

愛とは何かというと大抵観念的、抽象的、あるいは幻想的となり、近頃のように肉体的行動が愛だと思っている者が相当にいるようである。そこでいったい愛とは何かということを見ていくと、愛とは助け合うことであり、他を生かすということなのである。 この地上界は自分独りでは立つことができない。常に複数という関係の中で相互に働きかけながら他を生かすことによって成り立っている。現れの世界(地上界)は意識界とは異なり、こうした相互作用の関係の中で生かされ、それは否定しようとしても否定できないものなのだ。他を生かすとは自分の身を他に供養する、ということである。私たちは動物、植物、鉱物を口に入れることによって生きている。つまり、それらの身の供養がなければ、私たちは一日として生きることができない。魚や野菜、飲料水はこれ皆、ことごとく生命を持ち、私たちにその身を投げ出している。私たち人間関係についても、さまざまな職業、仕事を通して他を生かしている。この地上に混乱が絶えないのは、これに欲望がからみ、欲に心が奪われるからである。他を生かす、助け合う愛の行為に心が定まれば明日にでも、この地上界は仏国土となろう。 愛というとイエスがすぐ浮かぶ。イエスが十字架の露となったのは、愛の行為を示すためであった。他を生かすための死は愛の極限だからである。イエスは愛を説き、人々にそれを求めた。愛は慈悲という神の心を行為によって表すことなのだが、当時の人たちはそれをいくら語っても理解してくれなかった。死は間近に迫ったが、それを避けようとすればいくらでも避けられた。だが、イエスは敢てそれをしなかった。愛の証はその身を供養(死)することによって果たされるからだった。十字架の人となったとき、イエスは罪人を含めて地上の人たちに神の恵みと許しを求めている。イエスの愛はかくして全世界に伝わるが、この言葉によってイエスが全人類の罪を背負ったと喧伝されることになる。そうしてイエスを信じる者は救われるとなってしまった。イエスを信ずるとは、愛を信ずるということである。愛を信ずれば、愛の行為がなければ観念の遊戯になってしまう。愛は行為だからである。胸にいくら十字を切ったところで救いにならない。イエスの行為を見れば分かるはずである。また、信は念を生み出し、念は行為につながってくる。それ故、愛を信ずるならば、行為が生まれてくる。行為のない信などというものは、ウソなのである。 (一九七五年二月掲載分)

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