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時の言葉
Word at time

2017年05月 魔に負けるな

昭和四十八年四月一日、うぐいすだに忍岡中学校講堂での講演の要旨。 昭和四十三年三月、霊的な現象が私の家に起こってから早や四年になる。神理の法灯はようやく全国各地で火の手を挙げてきたようである。人間は神の子としてこの地上界に目的と使命をもって生まれて来たことは誰の心にも内在されており、不調和な現代社会にもまれながらも、心の琴線に触れるならば、当然、そうした自覚がよみがえってくるものである。 インドの時代ゴーダマ・シッタルダーが説いた神理は正しく伝えられた。それが時が経つにしたがって、心を失い、こうであろう。ああであろうと知と意が先走り、学問哲学化された。神社や仏閣の前にいって、一生懸命お経を上げれば人間は救われるという馬鹿げたものに変わってしまった。ことに中国に渡ってからそうなった。中国は長い間儒教が盛んであり、そのために仏教も哲学化されたということがいえよう。 仏教が中国に渡ったのは二世紀頃であり、そうして五世紀になって広がった。天台宗を開いた天台智顗(てんだいちぎ)という人は法華経を南岳慧師(なんがくえし)のところで学んだ。南岳慧師は毎晩夢の中でミロク菩薩から指令をうけて法華経を伝授されていく。そうしてその伝授されたものを陳少年、のちの天台智顗は、仏教は行いである。行為のない神理は神理ではないとして、三十七歳の時、天台山というところに移り、法華経を説いていく。当時の経文の声魂(こえだま)を通して、その心を調和しようとした。つまり陰声(いんせい)という法を採用した。八世紀になると最澄が中国に留学し、天台山で八ヶ月ばかり学び、比叡山延暦寺に天台宗を開いた。同年代に空海が一緒に中国に渡ったが、シナ海で台風に会い、眩網(ともづな)が切れたため別のところに漂流し、ウータイシャンといわれる五台山で勉強する。二年近くいて密教を日本に持ってきて高野山でそれを説いた。しかし、密教は仏教ではない。仏教は誰にでも理解してもらう広く明るいものである。密教の源流はヨギ(ヨガ)であり、己一個の自覚のみを求める小さな悟りといえるだろう。中国から日本に伝わってくる過程を像法時代といい、仏陀の教えに知と意が加わった。このためさまざまな教えが仏教化され、儒教以外のものは、みな仏教にされてしまった。 正法の時代は、実在の世界(あの世)から光の天使がかつて説いてきたその神理を再び元に戻すために、塵を払うために来る時代である。いわば末法という時代でもある。イエス・キリストがそうであった。モーゼの十戒はすでに千年余も経て、モーゼの精神は知と意に変り、心の基準を失った。十戒は悪い因習を持ったものに変っている。イエスはその精神をよみがえらすために地上に出たが、反対にその抵抗をうけて、神理を説くことが出来ず、年若くして、この世を去らざるを得なかった。モーゼの十戒はイエス・キリストが実在界でモーゼの協力者として示した教えだったのである。 実在界から来るところの光の天使達は、あらゆる危険を冒して、かつて自分が説いてきたものの塵を払いに地上に生まれて来るが、かえってそれに災いされてしまう場合が多いのである。インド時代のゴーダマの説いたブッタ・ストラー(正法)もまた同じであった。今から約四千二百年ほど前にエジプトで説いたその神理がインドに渡り、バラモンの経典に変っていた。ウバニシャド、ヴェーターがそれで、やはり哲学、学問に変っていた。ゴーダマ・シッタルダーは、そうした古い因習を破るために使命を持って実在界から地上に生まれた。 こうした光の大指導霊は、古い因習に受け継がれている環境には決して出てこない。なぜならその因習にひきずられ同じ間違いを犯してしまうからである。あくまで第三者の立場に立ってその中から人生に対する疑問を見出し、やがてパラミタ(仏智)を思い出し、衆生を導いていかなければならないからだ。 正法が出る時は、文証、理証、現証の三つを持って出てくる。そうして、迷っている衆生に、人間としての目的と使命を悟らしていくのである。 正法が流布されていく時には、必ず魔というものが競い立つ。邪魔をする。正法が流布されると、彼等の地上における、いわば生活の場を失うからである。彼等は暗い世界で地上に人間として出られぬために、生きた人間を通して、その欲望を満たそうとするのである。自分さえ良ければよい。ハタはどうでもという彼等のそうした想念は、現在、この経済社会において、さまざまな形で現われている。物質の独占、企業本位、労使間の闘争、怠惰、等々、私達は魔王達の跳りょうに負けてはならない。 ゴーダマが己を悟る寸前にパピアス・マラーが眼前に現われた。ゴーダマの心を攪乱し、迷わすためであった。もしゴーダマが悟り、人間神の子であることを知ってしまうと、ゴーダマの縁につながる人びとの心を支配できなくなり、争い、不信、独占、裏切りなど、彼等はその欲望を満たされなくなってくるからだ。魔はその後も、ゴーダマの教団内で暗躍を重ねる。弟子達の心の中にはいり込み、手をかえ、品を変えて、ゆさぶり続けた。 イエスのときもそうであった。十字架はユダの反逆によったが、しかしそれ以前から、さまざまな妨害がイエスの身辺におこり、常に薄氷を踏む毎日であった。 モーゼの場合も外部からの直接攻撃が終ったと思うと、こんどは内部から動揺がおこり、神を信ずる人びとの心を攪乱させている。 魔界に住むあの世の地獄霊は、いったんその淵に沈むと、人間として地上に生まれてくることができない。そのために、彼等は常に、苦悩といらだち、焦燥と背徳の間を呻吟(しんぎん)し、スキあらば人間の心に食い入り、自己保存の欲望を果そうと躍起になる。 彼等にとって正法は大敵なのである。正法が地上に浸透しては、人の心をあやつり、地上での欲望が果せない。すなわち、彼等は、地上での生活の場を失うのだ。 人間を含めた物質界は、光と影の両面を保ちながら維持されている。これは物質界の宿命といってもよいだろう。このため人の心も光と影が投影されるように仕組まれ、一念三千の心はどこへでも通じるようにできている。このことを別ないい方をすれば、人の心は、天使と悪魔の両方を合わせ持っているということだ。そのために、天使のように清い心の持主が、一夜にして悪魔の支配下におかれることだってあるのである。肉体人間は、その意識が一〇%しか働いていないため、こうしたことがしばしば起こる。 魔の誘惑はなにげない会話のなかから入りこむ。「大変ですね、そんなに働いて体でもこわしたらどうします。奥さんが可愛そうです」人からいわれて、それまで何とも感じていなかったその人は、そうかな、働き過ぎかな、家内が不満をいだいているかな、そう考えて、仕事をセーブし、ものの見方を変えてくる。 そうしてそれを契機として、素直な心に影を落としてゆく人も出てくる。 魔は、自分の心にある。したがって内から外に、外から内にむかって、常にゆれ動くものだ。指導者が誤った方向に動くと、多くの人びとは迷い苦しみ、魔の支配下におかれてしまう。 魔にうち克つにはどうすればよいか。それは中道の心しかないのである。中道の心は大自然が教えている。太陽の熱光に強弱はない、空気に増減がない。一日は昼夜の別があって、決して一方に片寄ることがない。だから、この地上に生命が生かされ、調和という環境が与えられている。正法の目的は中道であり、私達の心も肉体も、片寄らない中道が必要なのだ。それには、まずものの見方から中道にそうようにしなければならない。自己の立場を捨て、客観的に見る眼を養うことが大事だ。置かれた立場を固執し欲望のままに見るクセを持っていては、魔の支配下におかれてしまう。 どんな場合でも、自然が教える正法を尺度として、正しい見方、判断、思いを忘れてはならない。正法とは大自然が教える神理であり、一切の尺度はここにあることを銘記すべきだ。 (一九七三年六月掲載分)

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