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高橋信次先生講演
Lecture

心行の概説(4)

一九七五年九月 著

(前号より)

祈願文の解説
天と地のかけ橋

 

いったい祈りというものは、どのような精神的過程を通って発生したものなのでしょうか。
それは、人間が肉体を持ち、あの世、天上界(実在界)から地上に生をうけたときからはじまります。
魂のふるさとである天上界では〝祈り〟は即行為そのものとなっているので、殊更(ことさら)に、祈らなくてもいいのです。思うこと、考えることが、そのまま祈りの行為となって、神仏と調和しているからです。ところが、人間は肉体を持つと、こうした全なる心、そうして、それにもとづく行為を忘れ、自我に生きようとします。五官に左右され、六根にその身を、心を、まかせてしまいます。すると、煩悩という迷いに、己自身を埋没させ、どうにもならなくなってしまいます。
苦しい時の神だのみ。これは煩悩にふりまわされた人間が、最後に求めるものは、己自身の魂のふるさとであり、ふるさとこそ、救いの手をさしのべてくれるもう一人の自分自身であるということを、無意識のうちに知っているからにほかなりません。
助けを求める自分と、救いの側に立つ自分は、ともに一つですが、救いの側に立っている自分は「心行」の中に述べている潜在意識層の守護・指導霊であります。本当に、その人が煩悩にふりまわされた自分を反省し、どうぞ助けて下さいと祈ったときは、潜在意識層の守護・指導霊が救ってくれます。守護・指導霊に力がない場合は、より次元の高い天使が慈悲と愛の手をさしのべてくれます。

 

このように、〝祈り〟というものは、自分自身の魂のふるさとを思いおこす想念であります。同時に、反省という、自分をあらためて見直す立場に立った〝祈り〟でないと、本当は、あまり意味がないし、救いにはならないということであります。
苦しいから助けてくれ、というだけでは、愛の手はさしのべられません。なぜかといいますと、今の自分の運命は、自分自身でつくり出したものだからです。それは、他の誰の責任でもありません。自分自身の責任だからです。
人間は神の子であり、神の子に反した行為は、その分量だけ償うことが神の子としての摂理です。反省し、ざんげして、祈るときに、神仏は慈悲と愛を与えてくれます。
あやまちは、人間にはさけられないからです。

 

祈りというものは、このように、肉体を持った人間の、神仏を思い起こす想念として発生しました。
聖書の中に、「汝信仰あり、我行為あり」という意味の言葉が随所に出てきます。これは、単なる祈りでは意味がない、行為で示せということです。祈りは、行為にまで発しなければ、真の祈りまで、高めることは出来ないのであります。
また祈りは、神の子の人間を自覚したその心と、その感謝の気持ちが、〝祈り〟となるのであります。
現在与えられた環境、境遇というものは、神が与えてくれた自分自身の魂の最良の修行場であり、ここを通らずして魂の向上はあり得ないとする自覚、感謝の心が天に向った時に、祈りとなって、ほとばしるのです。人間は、所詮、神にはなれません。したがって、神仏の加護と人びとの協力なくしては、いっときといえども生きてゆけません。自分の運命を天命として、その使命をこの世で果たすためには、人間は祈らずにはいられないものなのです。

 

こうみてまいりますと、〝祈り〟には、段階があり、同じ祈りにしても、各人の心の所在、調和度によって、かなりの相違があるといえます。
しかし、祈りの本質というものは変わりません。
その本質とは、祈りは、天と地をつなぐ光のかけ橋であること。したがって、神仏との対話であるということです。
人が祈ったときは、天と地の光のかけ橋がかけられたことになります。
ただしこのかけ橋は、各人の心の調和度によって、大きくもなり、小さくもなり、太くもなり、細くもなるものなのです。

 

(次号に続く)

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