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時の言葉
Word at time

2017年09月 神と罰

人間は神仏の子である。
自ら律し、自ら創造し、自らこの地上を調和させてゆく。大自然が調和されているように、人間もまた調和された存在者である。
神仏の子である一つの証明は、己自身にウソが言えないことと、人間の意識は宇宙大の広がりを持つということ。
人間の肉体構造が宇宙と同様につくられており、星の数と人間の肉体細胞の数についても、やがて新しい発見がなされるであろう。

では、そうした存在者の集団である地上社会が何故混乱を招いているかである。
神の子ならばもう少しましな社会がつくられてもいい筈ではないかと。まさにその通りであり、神の子の社会が不善の社会をつくる道理がないからである。
だが、ここで大事なことをおろそかにしてはならない。
神の子は自らを律し自ら創造してゆくようにつくられている。大自然を神が創造したように、人間もまたこの地上を創造してゆくものである。
しかも人間は、神と同様に自由な意思が与えられ、言うなれば、その自由な意思でどう自分が創造しようと、それは神の子の許された権能なのである。
人間が肉体を持ち、個々の生活環境を形づくってゆくと、本来の神の子の神理から離れた創造行為に移りやすくなってゆく。
ここに肉体人間の過ちがあり、不幸の原因が生じてくる。相対観念は、あらゆる悪を生み出し、罪を生み出してゆく。
しかし、天があり、地があり、男女の区別のある相対界であるからこそ、より進化した調和を生み出すことも可能なのである。
これまでの人類史は、調和の期間が短く、悪を創造してきた期間の方が長かった。罪をいろいろ重ねてきた。神の子のあるまじき罪を、不調和を生み出してきたのである。
人間は、自由な意思と自由な創造性を与えられ、それは神の子としての当然の権能として行使できるために、今日の悪をつくってきたのである。

人間の本質はこのように、神仏の子である。神仏の子であるが故に、その罰は己が償わなければならない。
神仏が神仏を罰することはないし、神仏の子は、神仏そのものであるからである。
神を祀り、仏を崇め、手を合わせることを拒めば罰が当るとする考えや思想・掟がもしあるとすれば、それはまったく人間を知らぬために起こった、いわばその教団維持のための自己保存にすぎない。
神は人間に罰を与えるどころか、不幸な者ほど思いわずらうのが親子の情というものであり、神仏の心は人間の心と少しもかわりはないのである。
間違っても神仏が人間に罰を与えると考えてはならない。 蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は刈り取ることが神理であり、法であり、人間に課せられた天命である。

(一九七一年五月掲載分)

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