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今月の課題
This Month's Problem

2017年10月

本部長 岸田 守

正法は万古不変であり、いくら年月を経ようとも、いつでも新しく、私たちを導いてくれます。原点に戻って学びを深めていくために、今月は、平成七年十月号に掲載された、岸田本部長ご指導の要旨を再掲載させていただきます。今月は「反省」についてもう少し深く考えてみたいと思います。

 

今日は一日、思ったこと行ったことが正しかったか、間違わなかったか。
○か×かが反省の基準になっているようですが、私たちの心はそんな単純なものではありません。
うらみ、ねたみ、そしり、怒りなどの思いは論外ですが、深く考えてみると、普通、私たちの心の動きは正しいとか間違いだとか決められないようなものの方がはるかに多いのではないでしょうか。
たとえば、誰彼さんが入院して手術をしたとします。
さあ大変と私たちはあわてるでしょう。早速お見舞いにかけつける人もあれば、あれこれと憶測(おくそく)し、要らぬ心配をする人もあるでしょう。
或いは義理にでもと人を誘ってお見舞いする人もあれば、静かにそっと陰から祈っている人もあるでしょう。
いずれも、あくまでたとえばの話ですが、これがそのご当人にとって必須の試練なのか大事な修行なのか、発想の転換・人生転機の時期なのか、本当は誰にも分からないのです。
だから私たちに出来ることは、その方の気持ちを察し、心身の平安を祈ることだけかも知れません。
それよりも、その方の身近な縁生であればあるほど、それを自分自身のこととして、自分の至らなかったこと、人を赦せなかったこと、人の心を察しられなかったこと、汲めなかったこと……などをしっかり反省してみることなどが大事なのではないでしょうか。

 

正法の三本柱の一つに「慈悲と愛」があります。慈とはいつくしむ心、悲とは哀れむ心で、いわゆる神仏の抜苦与楽の心と云われますが、同じ哀れみやいつくしむ心でも、その人の本当の辛さ、苦しさ、悲しい思いを分かってやれる気持ちがなければ慈悲とは程遠いものと云えましょう。
しかも、特定の人には注(そそ)げてもその他の人には及ばないのでは、愛とは云えません。
先日もある人から、深く反省してみると、たしかに至らぬところだらけです。
釈迦伝にある
“ゴーダマは、過ぎし日を振り返ってみると、自分が歩いてきた想念と行為は、自己保存のエゴしか見当たらないことを知ったのであった。
そうして、心の遍歴について、中道という仏法(正法)の照明を当てていくと、至るところ黒雲が渦を巻き、正法に適う行為の少なさに唖然(あぜん)となったのであった。……”
とある記述の通りです。
まして私は、ゴーダマ様ではないただの凡人ですから、もっと厳しく反省したらずいぶん沢山の間違いを犯していることでしょう。
しかし、そう決めつけてはこの自分の立つ瀬がなくなります。
自分があまりに可哀そうです。
こんな私でも、人様のお役に立っても来たし、ずいぶん善い事もしてきているんですから……。
という質問を受けました。

 

お話しぶりから、正法をよく勉強されておられるようですが、残念なことに、ご自分が常に人より優位に居なければ何事も承知できないというキツイ増長慢というカルマの持ち主であることに全く気付いておられないのです。
だから、自分の間違い、欠点カルマを多く発見すれば自分が可哀そう、というような邪見が出てくるんです。
自分の欠点カルマに気付けば善我の心は喜びます。守護・指導霊も善哉善哉と大喜びするでしょう。
可哀そうというのは己心の魔、偽我の思いです。
だから私は、私たちはみんな本来は神性仏性のある神の子なのですから、冷静な時は善い事、良い想いや行いを沢山しているでしょう。
しかし私たちの心には、心のシミとも云うべき数多くの欠点カルマも持っています。私たちがこの世に修行に出てきた一番の目的は、自分のそのカルマに気付き自覚すること、そしてそのカルマを一つでも多く懺悔し修正することです。
と答えたのですが、もう一つ私が残念に思うのは、今の世の中があまりに豊かすぎて、何事によらず、何としてでもやり通すという「やる気」の気概が足りないことです。
艱難(かんなん)汝を玉にす(人間は苦労を積んではじめて大成する)という古来からの諺がありますように、艱難も逆境も貧乏も病気さえも、修行の糧にできれば、決して悪いことだとは云い切れません。よく云われることですが、逆境から学ぶ教訓は

 

⑴人間をきたえる。
⑵同情心を豊かにする。そして
⑶奥行(おくゆ)きのある人間をつくる。
ということです。

 

この奥行きのある人間になることこそが、私たちにとって最も大事なことなのかも知れないのです。

いずれにしても高橋信次先生は、「反省は神が私たち人間にだけ与えた特権です」と説かれました。

マホメットの言葉に
「世の中でいちばん美しいことは、罪あるものの悔い改めである。過去にどんな罪があったとしても、悔うべきを悔い、新しい決意を以って立ち上がった姿は美しいもの、気持ちのいいものである。」
というのがあるそうです。
このように、過去の自分を一つ一つ反省し、懺悔してゆくのは、己の心を浄化し静かで豊かな心を積み上げてゆく事ですが、私たちは得てして善我の心で反省しているつもりが、いつの間にか偽我の心に変わっていることがあります。
これも、自分は正しい、そんなに間違ってはいないという、おごりの心のゆえでしょう。
それほど「善我の己の心に問う反省」は、何処かに間違いがあるはずだ、もっと正しい考え方があるはずだ、という程に厳しく己を見つめるべきでしょう。
近江聖人としてあがめられた中江藤樹の言葉にも、「日々、心の奥のご主人に対面なされ候わば、あやまち無かるべく候」というのがあるそうです。
いつも申し上げています「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」にしましても、私たちの場合、これで良いというものはありません。

 
私たちが生きているかぎり、人生修行が続くかぎり、その修行も続けなければなりません。
仏教に、お釈迦さまが厳しく戒められたという不放逸(ふほういつ)という、勝手気まま、しまりのない様子を否定した戒律がありますが、この反省にしても八正道にしても、決して華やかなものではなく、むしろ地味なものです。
それゆえ、不放逸にならぬよう、やる気を持ち続けるためには、それだけの強い意志と決定がいりますが、だからこそやり甲斐もあるわけです。
こうした視点からもっと深く自分を見つめていただきますよう折角のご精進を心から祈っています。

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