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2026年05月 布施

布施というと、いかにも抹香臭い響きを与えるが、布施の意義は感謝の心を報恩として形に表してゆくことである。このため、物を献ずる、お金を上げることもその一つであるが、人にはそれぞれ得手、不得手があろうし、自分の最もしやすい方法で人々に奉仕することが、立派な布施になるのである。

正法から布施を抜いたら正法でなくなる。なぜかというと、布施は、正法を信じ、神理を行ずる者の証であるからである。 正法には三つの柱がある。その一つは大宇宙を支配する大意識であり、その二は転生輪廻であり、三番目は慈悲と愛の心である。布施の行為は慈悲の表れなのである。

慈悲は神の心から生まれ、それは丁度、大陽が万生万物に熱と光を惜しみなく与え、生きとし生けるものに、生きるエネルギーを供給し続ける行為である。正法を行ずる者は、当然このような立場に立って、人々に接していくものでなければならない。正法を信じながら行為として布施ができないようでは、その人はまだ本当に正法というものを理解していないことになろう。

私たちは、現実に生かされている。これを否定する者は何人もいないはずである。米一つ作るにも、自然の環境、自然の恵みと、人々の協力があってはじめて可能である。洋服にしろ、靴にしろ、その他諸々の生活用品は、すべて自然の条件と人々の協力の賜である。こうした現実を見れば、当然のことながら、感謝の心が芽生えてこなければなるまい。今日の我が国は、物資の洪水といってよいほど、物が豊富に出回っている。金さえ出せば何でも手に入る。そのため、ややもすれば物や人々の陰の協力に対する感謝の心が失われ、なんとはなしに過ごしてしまうようだ。

人間は自分を過信したり、感謝の心が失われてくると、動物以下になりさがってしまう。どんなうまいことを百万喋っても、行為のない人が行くべきあの世の姿というものは、想像以上の苦界であることを知るべきである。多くの場合、その事実を知る手がかりがつかめないために、人は逃避的になったり、世をうらんだり、憎んだりしてしまう。よくよく心しなければならない。

人は、まず素直にその生活環境に眼を向け、生かされている現実に感謝しなければならない。

正法者は、このような現実を素直に認め、感謝の心を報恩として形に表して行くものである。慈悲の心は神の心であり、その心は布施となって、無理なく、自然に行えるようになることが大事である。魂の向上は、布施という慈悲の菩薩行を通してはっきりと約束されよう。

(一九七二年十二月掲載分)

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