人類の祖先は旧約聖書に象徴的に描かれている。
エデンの園でアダム(男)とエバ(女)が神の保護のもとに楽しい日々を送る。そのうち、神の楽園に蛇が現れ、エバに禁断の木の実を食べよと言う。エバは好奇心にさそわれ、蛇のささやきを聞いてしまう。禁断の実を口にしたエバは、その実をアダムにすすめる。アダムは神の怒りを恐れ、食べまいとするが、エバのすすめで、彼までもそれを食べてしまう。二人は禁断の実を食べると、今まで経験もしない自分を意識する。二人がそれぞれ自分を意識すると間もなく、神の怒りが始まる。エデンの園に雷がとどろき、二人は楽園にとどまることができず、ついに楽園を追われ、流浪の旅が始まる。
人間の原罪は、こうして伝えられた。そののち、イエスが出て、その原罪を贖うことになり、贖いの象徴が十字架となる。
さて、人間には、アダムとエバにみられるように、もともと原罪というものがついて回るものかどうか。イエスが十字架で贖ったとすれば、のちの世の人々に平和と安らぎが訪れてこなければならないはず。ところが、事実は戦乱につぐ戦乱であり、罪の意識は止むことを知らない。
エデンの園とは何かといえば、それは実在界であり、かつての地上天国を指す。禁断の実とは、肉体にまつわる想念であり、自己本位の意識である。蛇は執念、執着の動物であり、身体をくねらせ、左右に波形をつくらないと前に進めない。つまり、前進の波形は運動を表す。それゆえ、蛇は執念、執着の動物を意味するのである。
エデンの園は神の国である。そこに、どうして蛇がおり、禁断の実があったのだろう。すべては象徴的に語られている。
すなわち、人が自己本位(自我意識)に陥ると、その意識の波動の渦に巻き込まれ、なかなかそこから抜け出すことができない。これがカルマの循環である。カルマの循環は蛇の波形であり、執念、執着の波動に陥ると、真実が不明となり、何が善で、何が悪か、人間の目的すら見当がつかなくなってくる。
原罪とは、五感にまつわる六根であり、煩悩だ。これを断ち切るには、祈るだけでは断ち切れない。正道に照らした生活行為しかないのである。八正道を規準にした毎日の正しい反省の生活、反省後の努力の生活、心を正定にした調和の生活、自己保存の悪の思いは、悪としてかえってくる。悪の循環、運動から解放されるには、悪を思わないこと、原罪の種を蒔かないことである。
(一九七五年四月掲載分)