ある方からこんな質問がきたので、今回はそれに答えることにする。
質問の要旨は、ゴーダマ・ブッタはなぜ日本を再生の地としたか、どうしてアメリカや他国を選ばなかったか、というのである。
ひと口で言えば、仏教――正法が伝えられやすいからであった。
二千五百有余年前に釈迦は、ジャブドーバー(東方の国)のケントマティー(都会)において、再び正法流布を行うと弟子たちに宣言した。
どうしてこのような宣言になったかというと、今日の世界事情がどのように動き、人類の意識がどのように変わっていくかということが、ブッタには理解されていた。
まず、このことが第一点。
二点目は、正法を再興する場合の地理的条件が加味された。世界の交流が始まったのはせいぜいここ百年ぐらいの間である。それまではごく一部の要人、商人を除いてはほとんど他国との交渉を持つことがなかった。また持てなかった。正法が流布されていくには言語や地理的条件が当然考慮されてくる。仏教がインドからチベットに、そして中国に伝わり、日本に渡ってきたのも、こうした環境的理由があって、必然の過程を通ってきたのである。
第三点は、正法を理解するにはそれを受け入れる基礎的土壌が必要である。伝統や風習が異なり、ものの考え方に大きな隔たりがある場合は正法を突然持ち込んでも、これを咀嚼するのにかなりの時間が要る。しかし、日本における仏教の歴史は古い。そして、伝教大師が法華経を中国から持ち込むことによって仏教は定着したのであった。その後、仏教は形を変え他力に変わったが、形だけとはいえ仏教が日本人の生活の中にとけ込んだことは事実であり、正法の真意を伝えるのに理解しやすい条件を生み出している。一方また、日本人の勤勉さ、進出の気性、他国の文化を受け入れる柔軟な体質等は、今日の経済発展なり、科学や文化の進歩を見れば釈然としてこよう。
このように、正法を流布するという前提で日本という国が選ばれ、今日の具体的な活動となっているのである。そうして、ここへくるまでには現象界の状況が絶えず見守られ、実在界で計画されてきたものであり、それゆえブッタの公約は必然の形をとって現在に至っているわけである。第三者から見ると、アメリカやヨーロッパでもと思われようが、右の事情を参酌すれば自ずと理解されてこよう。
正法流布は、こうした計画性の下に進められてきたのである。
(一九七四年三月掲載分)