人間は所詮、神になることはできない。なぜかというと、この地上は何人といえども、己の心を錬磨するという修行の第一目的を外すわけにはゆかないからである。転生輪廻が永遠に続くように、この地上の修行も、また永遠に続いてゆくものである。これでよい、これで完成したという行き止まりはない。医学の進歩、科学の発展は、人工心臓や宇宙船をつくり、百年前の人知では想像も及ばないような進展をみせている。しかし、医学の進歩は反面において新しい病気の発見があり、病気と医学は、いわば追いつ追われつ進んでいる。原子力や宇宙船は人類に新たな希望を与えたが、人類絶滅という不安感をも同時に与えている。このように科学一つとっても、これでよい、これで終わりであるということはないのである。同様にして、人間の魂も、時々刻々、より以上の完成を目指して進んでいるのである。 こういう意味において、人間が神仏になる、ということはあり得ないのである。
そこで人間は、まず人間らしく、生きてゆくことが大事である。
人間らしく生きるとはどういうことかといえば、人間は神の子であり、修行の目的をはっきりと自覚し、その自覚にもとづいて思惟し、行為することである。中道の心を忘れないということである。反省ばかりしているとかえって心は狭くなる。反省を怠ると自我に流される。そこで、働く時は働く。体を休める時には休むことである。時には家族総出で旅行し、自然と語るのもよいであろう。芝居見物も楽しかろう。音楽を聴くことも情操を高める。こうした中からでも数限りなく教えられるものである。夜遅くまで、仕事、仕事で追いまくられ、追いまわしていると、やがて丸く大きな心までいびつにしてしまわぬともかぎらぬ。また一切の生活から遠ざかり、山にはいって滝行や禅定三昧にも問題がある。正法神理を実践行動しているものが肉体的鍛錬を目的とするなら悪くはない。しかし心の実態を知らず、行ずることを怠っている自我の持ち主が、こうした行を行ずると不調和霊に憑依されてしまう。反対に、人間は神様ではない、やりたいことをした方が得と考えるのも人間の目的を失ってしまう。
大事なことは、人間が何故生まれ、どんな目的で何を為すべきかをはっきりと自覚し、その目的に添った想念と行為を為してゆくことである。体を休める、音楽を聴く、旅に出る、芝居を観る、子供達と語る時間のない人生は砂漠をゆく旅人に等しく、人間らしいふくらみ、安らぎから遠ざかるものといえようし、第一こうした機会は、人間の目的から少しも離れぬばかりか、むしろその目的をいっそう叶えさせる原動力となるものである。
(一九七一年十一月掲載分)