新しい年が再びめぐってきた。新年を迎えると誰しも新春にふさわしい気概に心が引きしまるものだ。少なくとも、正法を信じ、正法こそ人間の生き方と思い至れば、自己の向上を願うのは当然のことであるからだ。
そこで皆さんに希望したいことは、今年はこれまで得た知識を智慧に変えて欲しいということである。知識が知識のままでは何の意味も持たない。知識が智慧に変わってこそ、正法が身についたといえる。
いったい智慧とは何かというと、物事を正しく処理する能力をいう。普通は正しく処理する能力に欠けるために、迷いや、苦しみが起こってくる。私たちの周囲は時々刻々と変化してやまない。歴史は繰り返すというが、今日は昨日の延長ではないために、新しい事象に右往左往してしまう。正しき智慧が働けば、猫の目のように変わる世事に心を動かすことは少なくなるであろう。
知識とは文字通り、物事に対する認識である。認識が深まれば物事に対処できると思いがちだが、この認識は思慮分別の認識であり、これでは智慧とはなり得ない。知識が智慧となり得るには、その知識を実際に応用しなければ智慧として身につかない。換言すれば、実践によってのみ知識が智慧に変わってくる。
普通、物事を考える、思うことは頭脳で行う。その考えが四方に及ぶと頭のシンが痛くなり、疲れを覚えよう。ところが、パラミタ(智慧)はそうではない。頭ではなく腹部のあたりから泉のように湧いてくるものだ。それこそ今生で学ばなかったことでも湧いてくる。昔の人は頭で考えるな、肚で考えよと言う。いかにも東洋人的な言い回しだが、智慧というものも、頭でなく腹から浮かんでくるものだ。智慧は知識の範囲をはるかに超えて、それこそ自由自在である。その応用は多岐にわたり、無限の広さを持っている。百年かかって博学を身につけても智慧にはなり得ない。智慧は心から湧き出ずるものだし、知識は頭で理解するものだからである。
私たちが正法を頭(知識)で理解したならば、まず現実の生活にそれを活かしてみることだ。八正道という正法を心と行いで実践することだ。そうすると、知識では割り切れない智慧が浮かんできて、物事を正しく処理できる能力が自然と備わり、迷うことが少なくなってくる。 今年は知識を智慧に変える実践に努力して欲しい。
(一九七五年一月号掲載分)