この言葉は天台大師が使った。その意味は簡単にいえば〝止まって見る〟ということである。つまり、想いを静め、反省をこらすことによって、これまで五官でとらえてきたさまざまな諸現象が心で見えてくる、正しく判断できるということだ。
止観についてもう少し分析してみよう。止観の止は観を止めるということだから、物を見る前提である想念をまず止めねばなるまい。したがって、止とは想念を止めることになる。しかし、正法・仏教は現実否定の虚無主義ではない。現実に生き、躍動する生命の在り方が目的だから、五官に振り回されず正しく生きることであり、この意味から、止まるとは正定を通してこれまでの生き方を反省するということになる。
つまり、次に止観の観が続いているので、反省を通してこれまでの誤った想念の動きを正しく軌道修正し、その結果、正しい見方が生じてくるということだ。止観の観はこの意味から二つの働きを指している。一つは、反省のための働きと、その結果の働きである。
こうみてくると、止観の文字は大変な意味を含んでいることになる。それは心の安らぎ、不動心をもたらす智慧である。智慧の涌現は、反省の正定を通さぬかぎり期待できないということである。
人間の行動の七、八割は感情によっている。怒り、憎しみ、嫉妬、愚痴、足ることを知らぬ欲望など、みな感情想念の働きである。感激、感動、感謝なども同じく感情だ。しかし、感情でもその出どころはちがう。自己本位の感情は前者であり、博愛の感情は後者である。
毎日の私たちの行動を見ると、自己本位の感情に左右されているところが非常に多い。努力の原動力が、怒りや憎しみであったり嫉妬であったりしている。また、好き嫌いや人情で間違った方向に走ったり、虚栄や名誉、自己の立場にこだわり、苦しみをつくっている場合がいかに多いことか。そのために私たちは心をますます曇らせ、正しい見方、考え方から離れている。
正しい見方とは智慧の涌現である。止観の意義は智慧の涌現にある。正定の反省を通して苦しみ悲しみをつくり、心の眼をふさいでいる波立ちの多い感情を静め、博愛の感情を育てることなくして、どうして智慧の涌現がはかられよう。
行動の大半を占める感情を調和させるには反省の正定しかない。〝止まって見る〟止観こそ、心と生活を安定させ、調和させる唯一の道である。自分を愛するならば、まず生活の中に止観を生かしてほしい。
(一九七六年三月掲載分)