人には運、不運が常につきまとう、と言われている。道を歩いていて事故に遭う。元気でいたいとしても病気をする。あれが欲しい、こうもしたいと考えてもそうはならない。競馬、ギャンブルは偶然の連続なので、面白さもあり、まるで人生を見ているようだと断言する人もいる。
運だとか、偶然を主張しながらも、これを信ずる人は少ないようだ。反対に、すべて必然と断言する者も皆無に近いようである。人生はあまりにも不確定の要素、つまり、認識できる範囲が非常に小さいので、判断がつかない、というのが実際であろう。毎度繰り返すように、私たち人間の意識量(物を認識する働き)は普通で、その全体の量の約10パーセントしか働かない、人によっては7、8パーセントくらいでとまっている者もいる。
さらに重要なことは、人にはそれぞれ過去世という魂の遍歴がある。その遍歴によって記録された想念と生活行為がある。そのために、そうした記録された因縁にひかれ、その人の気質をつくり、性格に影響を与え、能力等を形作っていく。同じ両親の下で育った兄弟姉妹でありながら、楽天家もあれば内向性の者もいる。これらは父母のその時々の精神状態なり生活環境もあるが、実はこうした先天的な魂の遍歴に影響されている。もっとも、後天的な生活環境にも人は大きく左右されるが、こうした先天的要素をはずしては、偶然、必然の判断は下せないのである。
運命の予知とか透視というものは、10パーセントの意識量では計れない。それ以上の意識量が働くことによって計れるのである。運命の予知が可能だということは、偶然の連続ではなく、物事は必然の方向に動いているということだ。ただ普通はそれが不可能なために、偶然とか、運、不運で片づけてしまうのである。
現代科学は壁に突き当たりながらも発展の途上にあるが、物質科学をもって偶然、必然を測定しようとすると無理が出る。なんとなれば、人間は物質だけではなく、意識という心を所有し、その心の一部に記録された過去世の遍歴と、今世の想念と行為が因果を作り出しているからである。
偶然とか運、不運を口にする前に、まず神の子の自分に立ち返り、今を正しく生きるよう努めることである。運はそうしたなかから開けてくる。
(一九七三年十一月掲載分)