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時の言葉
Word at time

2022年6月 安らぎ

心の安らぎは、正法の悟道の境地から生まれてくる。どうして悟道の境地から生まれるかというと、生死を超えているからなのだ。生老病死の迷いを離れているから心が平安になるのである。
具体的にいうと、死後の自分の行くべき場所を知っている。人間の目的が何であるかがわかっている。心と肉体は別々であることも理解している。自分の意思によって自分の肉体をコントロールすることもできる。同時に、自然現象はどんな作用でどう運ばれているか、そうして時として、その自然現象を調整することも可能である。こうなると、心が安らいでない方がおかしいといえよう。
中でも、一番大事なことは生老病死の迷いから離れることだ。この関門を通ると、心は安らぎ、不退転の心が備わってくる。すると、諸々の智慧が湧き出してくる。必要があれば、その智慧はさまざまな角度から湧現してくる。そうして、森羅万象の姿が神の意思の下に動いていることがはっきりと理解できる。心の中のパラミタは、こうしてさまざまな形でその扉を開いてくれる。

 

しかし、肉体を持ち、この地上で生活する以上は、努力と修行をやめることはできない。たとえ心は安らいでも、正道という日々の生活から離れることはできないものだ。それが肉体を持つ者の天命であり、修行でもあるからだ。生老病死の迷いから解脱しても、人間としての修行は、休むことなく続いていくのが人間である。大自然が休みなく運動しているのと似ている。 心の安らぎは、執着の心からは決して得られない。どんなに力んでも、知識が豊富でも得られない。心の安らぎは、思念と行為を通してしか得られないものであるからだ。法という調和の規範を要にして、実践することによって、初めて物事の道理がわかり、価値ある真実が理解できてくる。

 

人によっては、仕事をしている時が一番安らいでいるという。仕事が精神を統一させ、心を安定させるからだ。だが、老いてその仕事が青年の手に移ると、その人は途端に心が不安定になってこよう。仕事は生きがいと安心を与えるが、仕事そのものは心の真の支えからは、まだほど遠いものであるからだ。私たちは、もう一歩進めて、仕事の中の自分ではなく、仕事も自分もすべてを含めて、神理をよりどころにした安らぎであって欲しいものである。生老病死の迷いの執着は、そうした中からはっきりと超えることができ、不退転の心の安らぎは、そこから生じてくるものである。

 

(一九七五年八月掲載分)

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