(前号より)
このように環境は極めて不安定な状態です。武力もたいしてないし、大きな国が攻めてくればカピラなど一発でやられてしまいます。それから、食事にしても毒味する人がいます。敵のスパイが潜んでいるからです。
このような不安定な場所にあっても人間というものは、慣れてしまえ不思議なもので、そういう環境の中においても育ってゆくものです。しかし、自分の生活環境の中から人間というものはなぜ生まれ、年をとり、病気をし、死んでゆくのかという疑問が心の中からドンドン湧き出てまいります。
一方またカピラ城の生活は優雅であり、春は春の館、冬は冬の館で、いつも取り巻きには美しい女たちが何人も仕えています。しかし、生活が優雅であればあるほどシッタルダーは無常を感じていきます。一歩城を出れば酷しいカースト制度というものによって生活環境は城の中とは180度異なっています。ここでも生活の矛盾に突き当たります。同じ人間でありながら、生まれながらにしてこのような差別はなぜあるのだろう。ゴーダマ・シッタルダーは考え始め、疑問は疑問を生んで、自分自身で解決することができなくなってゆきます。
しかし、父親のシュット・ダーナー王はなんとか自分の跡取りを安心させたいとして、やはり義理の母親の里であるところのデヴァダバ・ヴァーストからヤショダラという娘を嫁に迎えます。17歳の時です。当時の王侯貴族というものは一夫一妻でなく、一夫多妻で、当然女同士の軋轢が生じて参ります。悩みはさらに自分自身のつくりだしたものによって膨れあがってゆきます。
29才のおり、シッタルダーは遂に家を飛び出す決心をしてしまいます。城を飛び出し、人間の苦しみというものをどのように解決してゆけばよいのか、一子ラフラをどうすればよいか。ラフラ出生の際には父親のシュット・ダーナー王から、二人の子なのだから二人で相談して決めよと言われ、ラフラと命名した。もちろんそう命名したのはシッタルダーであります。出家を妨害するという意味で、ラフラと付けた。ラフラとは障害物ということです。ラとは石、フラとは橋。当時は吊り橋が多く、橋の上に石が置いてあっては危なくて渡れない。いつ吊り糸が切れるかわからないからであります。このようにして家庭的には不調和なゴーダマ・シッタルダーでありましたが、ある夜、遂に自分自身の生老病死という苦しみの問題を解決するために出家し、その後約六年余り、中インドを中心にして修行するのであります。
しかし、肉体的な厳しい修行によって悟ることができないということを36歳の時、ネランジャラ河のほとりに一人のチュダリヤ・チュダーターという牧場の娘が乳をしぼりながら〝弦の音は強く締めれば切れてしまう。弦の音は弱くては音色が悪い。弦の音は中程に締めて音色が良い〟という民謡をうたっているのを聞いてしまいます。その歌を聞いて、人間というものは城の中にいて優雅な生活をしていてもだめだ、悟れない。逆に、滝や断食など厳しい肉体修行によっても悟ることができないということを初めて悟るのでした。その結果、ウルヴェラという村のピパラー(菩提樹)の大木のある丘に登って、己が悟るまではここから一歩も動かぬと固い決意をします。言うなれば死を決意して中道の物差しをもって、誕生から36年間の地上での生活行為の一つひとつを反省し、自分の心というものが常に丸く、大きく、広い心であったか、人を恨み、妬み、誹り自分のことしか考えなかった過去の心を修正していったのです。
瞑想を始めて一週間目です。瞑想していると眼前にある正覚山、そこから昇る明けの明星が自分の足の下に見えてきた。体は宇宙の姿になってしまって自分の肉体は遥か下方に小さく見えています。自己の中に宇宙があり、宇宙は即ち我であるということを発見するのです。同時に生老病死の原因、苦しみの原因というものはどこにあって、その原因を取り除くには自分自身の心と行いにあるということを悟っていくのです。21日間、ウルヴェラにおいて自分自身の過去を反省しつつこのような神理を諸々の衆生に話したところで解るものではない。このまま死んでしまおうと決心した時に、バフラマン(梵天)が出て参ります。梵天の名はモーゼやクラリオ(イエス・キリストの分身)といわれる光の天使たちです。
「ゴーダマ、その方は今までこのような苦しみの中から今悟りを開くことができた。この苦しみの原因を追求し、この神理を諸々の衆生に教えなくてはならない。お前がたとえ命を絶とうとも、そして、地球の、宇宙のどこの隅に逃げようとも、あの世に来ようとも、お前を即座に帰してやる。それはお前自身が生まれる前に約束してきたからだ。」
梵天から厳しく言われる前に、ゴーダマの心にいろいろと誘惑や悪魔が出てきて「ゴーダマよ、そのような神理を説いたところで人を救うことはできない。お前はそんなことをやるよりか、自分の国に帰って優雅な生活をした方が幸せだ。」と言って、ゴーダマの悟りを邪魔します。
こういう諸現象は私にも起こりました。「お前は事業家として力を付けていけば月に何十億という金が入ってくる。よけいなことを考えず事業だけしておけばよいではないか。お前があの世があるなんてうまいことを説いているが、あの世なんか無いよ。そんなことをやめて、もっと優雅な生活をやったらどうだ。」と私にささやきます。そんなとき私は、「お前はどこから来ているのだ。お前はあの世の者だろう。」と言ったら「解っちゃ話にならない。」といって帰ってしまいました。
インドの時代のゴーダマ・シッタルダーの周辺にもこういう問題が起こって参ります。
さて、このような経過をたどって、ではいったい、いかにして人々に説いていけばよいのかゴーダマは悩みます。けれども、心の窓が開かれてしまいますから、今説かねばならない人々が身近にいることを知ってしまいます。ことに悟りを開くまで、カピラから苦楽をともにしてきたコースタニア、バッテイヤー、マハー・ナーマン、アサジなど五人の人たちがいます。ネランジャラ河の周辺でゴーダマ・シッタルダーが口にした牛乳の一件でゴーダマ様は修行を捨てた、あのような者と一緒にいてもしょうがない。私たちは別の所で修行しようと、去っていった人たちが思い出されます。心の目にハッキリとその人たちがイシナパタにある川の流れている小高い所にいることが解ります。
(次号に続く)