人間がこの地上に存在するかぎり、最小限度の殺生は、まぬがれないものである。パンを食べてはいけない、魚を獲ってはならないとすれば、人間は餓死するほかはない。洋の東西を問わず、また昔も今も、神の道に参ずる者、悟りを得ようとする者の中には、肉食は殺生の最たるものとして、これを忌避する風習がみられる。動物を殺す、動物を食べることは、万物の霊長である人間のなすべき行為でない、ということがそもそもの理由のようである。
では、植物は生き物ではないのだろうか。植物なら、いくら食べてもさしつかえないものかどうか。生き物という点では、植物も立派な生き物なのである。植物にもそれぞれの精霊が住んでおり、人間がその気になりさえすれば、植物の精霊は、人間の言葉で、人間と同じように話しもし、喜怒哀楽の感情すらみせるものである。その精神作用は動物以上ですらある。動物と植物との相違は、見た目が静的であるか動的かの違いだけである。どちらが良いの悪いのという区別は本来なにもない。
昔の出家僧は妻帯を認めなかったようだ。妻帯は煩悩を刺激するからというのがその理由のようである。更に昔の出家僧は、食べ物を制約した。栄養価の高いもの、動物食は一切口にしない。なぜこういうものを口にしなかったかと言えば、こうしたものは本能を刺激しやすいという生理的理由があったようである。妻をめとらぬという前提に立てば、その前に、食べ物を制約しなければならなかったからであろう。
こうみてくると、動物食はいけないとする思想も、その根拠をたぐれば実はこんなところにあったのではあるまいか。生物界の殺生というものは、本当は自然の摂理なのである。土の中に住むバクテリア、何百何千という虫の生態を見る時、そこにはいかにも凄惨な姿が演じられているが、その繰り返しは自然を維持し、生物界相互の生存を助けているのである。肉食と草食動物の比というものは常に一定に保たれている。もしも肉食動物が減り草食動物のみとなれば、草木の生存は失われ、草食動物の生存すら覚束なくなってくるのである。人間は動物界の生態を見て、人間もかくあるべしと断定しがちであるが、無益な殺生はしてはならないのである。人間を除く昆虫を含めた動物界の生存競争は、決して不必要な殺生はしていない。生存に必要なものしか彼等は獲っていないのである。もしも必要以上にそれを求めれば、やがては自分の糊口を塞ぐことを彼等は知っている。しかし、本当は彼等自身ではなくて自然がこれを監視し、コントロールしているのである。
私共が、植物にしろ動物にしろ、それを口にする時、いちばん大事なことは感謝の心を持つことである。そうすることによって、彼等の地上での目的も使命も果たせたことになるからである。
(一九七一年二月掲載分)