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想念を浄化する

高橋信次先生は、人間の本体は心であって、その心を動かすものは想念であり、想念の浄化は自分ばかりか、自分の周囲をも調和させると説かれました。
なかでも「一念三千」と「知識と智慧」については明快に答えられ、想念の在り方が人それぞれの人生を大きく変えてゆくことを指摘されています。
また、この地上を調和させるものは、ほかならぬ私たち人間です。それだけにこの地上は、私たち一人一人の肩にかかっており、神の意をくんだ想念と行為が重要になってきます。
先生のご著書『心の原点』の中から、「一念三千」と「知識と智慧」について前号につづき掲載いたします。

 

知識と智慧
生活の場は生きもの
知識と智慧について、これを同一にみる人は少ないだろう。だがこの両者の隔絶したちがいとなると、誰しも、二の足を踏むにちがいない。つまり、ここからここまでが知識であり、そのほかは智慧だとはなかなか区別がつけがたいからだ。
智慧とは、内在された生きた経験である。
知識は、この世で学んだ諸々の知識、それをいうのだ。
大学で学んだ知識が実生活にどれほど応用が可能か。まず十の知識のうち、一つか二つだ。学者や特殊な職業のひとならいざ知らず、社会に出た人々の応用範囲は、本当に微々たるものにすぎなくなってしまう。
知識を応用して実生活に活かそうとすると、大抵は失敗をする。大学教授や学者に、政治の実業をやらせてみればわかる。成功した例をきいたことがない。

 

生活の場は、生き物と同じであり、時々刻々変化している。昨日の知識は今日には役立たないことの方が多い。
今日の医学は百年前より長足の進歩を遂げている。しかし医学の進歩と共に、新しい病気がふえている。次々と新種の病気が現われ、医学がそれについて行けぬというのが現状のようだ。
これについてある人はいう。医学の進歩があったから、これまで未発見の病気が発見されたのだ。もともとそうした病気があったけれども、医学が幼稚だったからわからなかったのだと。またこれまでの医学は治療医学で、予防医学は未開拓である。そのために病人が後を絶たない、ともいう。
私は医学を否定するものではない。医学の分野で治せる病気も多いし、そうした治療をした方が良いという場合もあるからだ。 ただ病気の八割近くは、物理的治療では治らぬことが多い。なぜかというと心が病気をつくっているからである。新種の病気が医学の進歩と平行として現われてくるのは人間の心は、モノを生み出し、時代と共に欲望の方向が変化している。これまでの医学は、物質科学で、物理的治療のみにウエイトが置かれている。人間の心についての理解が欠けていたようである。だから、物質科学として医学は進んできたが、病気の間口は、時代の変化とともにひろがっていくため、医学と病気は絶え間のない競争関係におかれているといえるだろう。

 

私がここでいいたいことは、知識と現実である。医学といういわば科学知識の頂点をゆくそれすらも、病気という現実の前には多くの問題を投げ与えているという事実である。
知識には限界が
学問、知識にはある一定の限界がある。私たちの生活の場は、知識や学問によって支えられているのではない。といって、学問、知識の必要はいまさら述べるまでもないが、要は、私たちの毎日の経験が、私たちの実生活を活かしているということである。いうなれば毎日の経験から生み出された生活の智慧が、私たちを支えているのである。
どんな職業にしろ、あるいは家庭にあっても、知識だけでは計り得ない何かがある。その何かとは経験である。経験によって習得し、はじめてものの用に役立ってくる。昔から、覚えるより、なれろ、という諺があるが、どんな職業でも、一人前になるには三年、五年の歳月を必要としよう。大学を出て、就職してもスグには役立たない。大学をでたからといって、十人が十人、指導的地位ち立つとはかぎらない。小学校だけでも立派な社会人として、大会社の社長をこなして行く者もある。こうした例はその人の経験と努力によって得られたものだ。実社会での生活の智慧が、それをさせたといえるだろう。

 

(次号に続く)

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