ブログ

想念を浄化する

高橋信次先生は、人間の本体は心であって、その心を動かすものは想念であり、想念の浄化は自分ばかりか、自分の周囲をも調和させると説かれました。
なかでも「一念三千」と「知識と智慧」については明快に答えられ、想念の在り方が人それぞれの人生を大きく変えてゆくことを指摘されています。
また、この地上を調和させるものは、ほかならぬ私たち人間です。それだけにこの地上は、私たち一人一人の肩にかかっており、神の意をくんだ想念と行為が重要になってきます。
先生のご著書『心の原点』の中から、「一念三千」と「知識と智慧」について数回にわたり掲載いたします。

 

一念三千
自由な心 人の心は本来、自由である。
その広がりは、宇宙大にまでひろがっている。ふつうは、そのひろがりを体験として認識していないだけの話しである。
しかし私たちが夜空の輝く星々をみて、大宇宙は広いなあと感ずる心は、宇宙大にひろがったその心を客観的に感じているのである。
誰しもそうした心を内在しているのだ。
そうした広い心を持ちながら、その心が生活の上に現われてこないのである。
これは何に原因があるのだろう。肉体という、五官に心が奪われているからだ。
そのために、人の心は、非常に小さく、あるいはゆがんでしまい、本来、広く、丸い、豊かな心が生かされずになっているのだ。
仏教に一念三千という言葉がある。一念三千とは、人の心はどこへでも通ずる、そのことをいっているのだ。悪を思えば悪、善を思えば善である。
心の針は、この世だけでなく、あの世の世界に、そのまま、ストレートで通じてしまう。
そのため、五官に左右され、自己保存の心を動かし、人を憎み、怒り、そねみ、ねたんだりすると、そうした想念が集まっている地獄界に、意識が通じ、やがて、自分自身が、そうした想念の渦にはまり、さまざまな障害となって生活上の問題をひき起こしてくる。
反対に、広い心になって、愛と慈悲の生活、人を生かす正道を実践しておれば天上界に意識が通じ、守護・指導霊の光をうけることになる。
人間の心は、丸く大きく、豊かなものだ。広い心は、光の天使の導きをうける。いつどこに行っても通信が送られ、その人を善導してくれる。肉体人間は、明日の生命すらわからない。それだけに迷うが、しかしそうした迷いの中にあっても、正道を守り神仏を信じ、広い心を失わなければ、必ずその人の前途に希望を与えてくれる。
五官に動かされた狭い心は、広く大きな自由な心を自ら閉ざすものである。

足るを知れ
一念三千の言葉は、中国から来たもので、天台智顗という人が使ったものである。
一念とは、想念の針である。こうしたい、ああしたい、あれが欲しい、これが得たい、という想念である。
人間は二つのことを同時に思うことはできない。一つしかできない。その一つの悪を思えば、地獄に通じ、善を思えば天上界に通じてしまう。従って悪は思ってもいけないのだ。
三千とは、三という数は割り切れない数である。二とか、四とか、六なら割れるが、三は割れない。千という表現は、大きいことを意味し、そこで、三千とは無限大という意味になる。
一念三千は無限大の方向に突き進む、ということだ。
悪を思えば、悪の極に、善を思えば善の極に通ずる。
一念三千を角度をかえて解釈すると、人の心の無限大、つまり、自由をいっている。
しかし、その自由な心を悪につなげれば、やがて自分自身の首をしばることになってしまう。
いったい、悪とか善は何を基準にいうのであろう。
ふつうは、人を殺てはいけない、人の物を盗んでは悪いことだ、という解釈である。
もちろん、盗んだり、殺したりすることは悪にちがいない。ところが、正法からみた善、悪は、そうした行為を動かす心を問題にする。つまり、欲しがる心、人を憎む想念は、自分が可愛いい、自分さえよければという自己保存、自我我欲があるからだ。
もしそうした自我がなければ、盗んだり、横取りしたりする気持は働かないはずである。
一切の悪は、自己保存なのである。自己保存から出発する。自己保存を中道に戻し、足ることを知った生活行為をして行けば、この世は調和された社会が生まれるだろう。
神の審判は、人の行為も勿論だが、それよりもまず、その行為を行為として働かすところの心、自己保存の想念、悪の一念が、いちばん重要視されるのである。
そういう意味においてまず私たちは悪を思わず、常に善念を持って、正道に適った生活をして行くようにしなければならない。
家庭の不和、病気、事業上の問題、公害、さまざまなトラブルは、自己保存と足ることの知らない欲望がなせるワザであることを知らなくてはなるまい。

 

(次号に続く)

PAGE TOP