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心の基準(1)

現代社会に生きる私たち一人一人は、その中にある矛盾を少なからず体験し、誰しも一度は何とかしなければという気持ちを抱いたことがあるのではないかと思います。しかし、どうしたら良いのかという問題になると、わからなくなり、日々の生活に流されてきたというのが現状ではないでしょうか。
たとえば、精神問題を取り扱っている宗教にしても他力信仰が多く、八百万の神々が力をふるっています。しかし、これで本当に幸せになり得た人はいないのです。

 

経済環境にしても同様のことが言えます。資本家と労働者の関係は何ら改善されることなく、お互いに闘争と破壊を繰り返し、なかば年中行事のようにストライキが行なわれています。戦争もまた、なくなってはいません。一体、私たち人類は何のためにこの地上界に生まれ、何をなすべきなのでしょうか。人々はその意味がほとんどわからなくなっているのではないでしょうか。ここで、私たちは人生というものについて冷静に考えてみる必要があると思います。
まず、私たちはものの判断というものを、肉体の五官を頼りに行なっていますが、その五官による判断が果たして絶対的なものであるといえるかといいますと、多分に自己中心的なとらえ方をしている面があります。もし私たちが、自分さえよければ、あるいは自分の家さえ、自分の国さえよければ良いのだと考えていたとしたなら、本当の調和は目指すべくもないでしょう。
それでは、私たちの身の回りをとりまく自然界の姿はどうなっているでしょうか。後で詳しく述べたいと思いますが、自然界はすべてが、動物も植物も鉱物も、調和された相互関係によって安定しています。人間の作り出した物質文明のみが、いつの間にか公害を生み、自然環境を破壊しています。欲望を中心にしたものの考え方や行為が、自然環境を破壊に至らしめているのです。
私たちは、現在自分の持っている肉体そのものが絶対だと思っています。しかし、そこに間違いがあるのです。私たちの肉体というものは有限であり、無常なものなのです。人間の肉体は刻々と変化し、年をとり、やがて私たちはこの地上界へ肉体を置いていかなければなりません。

 

しかし、科学者をはじめ多くの人々は、肉体がすべてなのだと思っています。もし、そうなら、悲しんだり苦しんだりする思いも肉体が行なうのでしょうか。あるいは、肉体を支配している魂、またはその中心にある心がそのような現象を作り出していると考えた方が良いのでしょうか。ここに大きな問題があります。
悩み苦しみというものは、自分自身の思うこと行なうことが両極端に表われたときにでてきます。自らが苦しみの原因を作っているといえるのです。その苦しみや悲しみの中にあって、それがどんなにつらいことであろうと、私たちは、眠っているときには、それを忘れていることができます。それは一体なぜなのでしょうか。現代の科学では未だ解明できてはおりません。
自然界をみてみますと、エネルギーと物質が共存しているという事実は、現代物理学ではもう常識になっています。アインシュタインの相対性理論によると、エネルギーというのは質量と、光速の二乗の積で表わされますが、言葉を換えて言うならば、エネルギーの集中固体化したものが物質であるとも言えます。氷を例にとって考えてみますと、氷というのは化学記号で表わすとH₂Oとなります。これは水になっても変わることはありません。さらに蒸発して大気中に広がっていっても水分はやはりH₂Oなのです。

 

このように考えてきますと、自然界の空間は、あらゆるエネルギー粒子の分散されている状態といっても過言ではないはずです。これを仏教では空の世界と言い、物質の世界を色の世界と言っています。そして、〝色即是空、空即是色〟、つまり色の世界と空の世界は一体のものだと説いています。それと同じように、私たちの肉体はあくまでも人生航路の乗り舟にしかすぎず、船頭さんである魂、あるいは意識の中心である心といったものがなければ、活動することは不可能なのです。
このようにして肉体と魂が共存して現在があります。それであるが故に、寝ている時には、嗅覚も味覚も、聴覚神経も作用しないのです。こうしたことから、私たちはもう一度、普遍的な魂、その心の偉大性といったものを考え直してみなければならない時に来ているのです。
それでは、もし、エネルギーの世界と同じように、現実に次元の違った魂の世界というものがあるとしたならば、私たちはこの現代社会の中において、自分の生活行為をどのようになしていったら良いのでしょうか。

 

五官でとらえたものを絶対とし、自らの生まれた環境や教育、思想、習慣の中から人生をこれだと決定するのは非常に難かしいことです。なぜなら、人間は自分の都合のいいように環境を作り出したからです。しかし、私たちは誰しも、現在はいかに経済的に豊かであろうと地位があろうとも、生まれる時には裸で生まれてきたのです。まして曼陀羅や、あるいは仏像を持って生まれた人は一人もいないはずです。人間は誰も裸であり、死ぬときもまた裸なのです。

 

(次号へ続く)

 

(昭和四十九年春、大阪でのご講演を要約したものです)

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