供養というと昔から仏、霊に物を供えまつることのように思われているが、本当はこれでは供養にならないのである。供養の意味は「先祖の霊よ、安かれ」とする子孫の祈り心でなければならないからである。物をあげ、それで〝よし〟とすればこれほど安易な考え方はない。私共が現在こうして肉体を持ち生きていられるそもそもの恩恵は、それぞれの先祖が私共を生み育ててくれたからであり、それにたいする感謝の心は報恩となって形の上に現われてこなければ意味がないからである。供養の真意はそれ故に、家庭の和合、調和にあるといえる。
人間の霊魂は、死という肉体機能の停止によってあの世で生活するものである。世間の人は肉体が灰になれば人の魂まで無に帰すと思っているが、それは間違いである。人間の予知能力、天才児、幽霊の存在については、その例は枚挙にいとまがないし、こうした諸現象は人間である以上誰しも備わっているし、見ることも出来る。またこうした諸現象は全てあの世の霊が作用して起こるものである。魂の転生輪廻と魂の永遠不滅ということも単に人間の願望としてではなく事実として存在するのである。
あの世は三次元ではなく、四次元以上多次元の世界であり、それだけに、普通はある人には認知できてもある人には全然分からぬということもあり得るが、だからといって否定できるものでは決してないのである。法事で物を供えることは本来は気休めにすぎないが、死んで無になると思いながらも物を供えるその心をたしかめたことがあるだろうか。
家庭の和合、調和が先祖への最大の供養という意味は、あの世に帰った先祖の霊がその子孫の家庭をたえず見守っており、もしも先祖の霊が地獄に堕(お)ちて自分が分からなくなっていたとしても子孫の調和ある家庭をながめることにより己自身の不調和を改め、その霊をして昇天させる原動力となるからである。我が子の幸せを思わぬ親はないはず、しかもその子が親より立派であり、家庭が円満に調和されていれば、親は子に励まされ、その子に恥じない自分になろうとするのは人情ではないか。あの世もこの世も、人の心に少しも変わりはないのである。もちろん、なかには例外があろう、地獄に堕ちれば文字通り苦界にあえぐ。類は類をもって集まるの喩(たと)えで、その霊は自分と同じ思想、考えを持った人に助けを求め、所謂(いわゆる)、憑依(ひょうい)作用となって人の体、実際には意識に憑(つ)いてしまう。すると憑かれたその人は病気をしたり、自殺したり、精神病になったりする。
地上が調和されると、あの世の地獄も調和される。あの世とこの世は、いわば相関関係にあって、個々別々に独立して存在するものではない。先祖の供養というものは、このようにまず個々の家庭が調和されることであり、調和こそ最大の供養ということを知ってもらいたい。
(一九七一年三月掲載分)