今月は合掌について説明しよう。
合掌というのは中道の心を形の上に表わした姿である。合掌すると精神の統一がしやすいというのもその辺の事情を語っている。
まず、人間の肉体を見て欲しい。胴を中心に、手足も、耳も、鼻の穴も、目も、左右二つついている。これがもし一つだけだったらどうであろう。不便この上もなく、バランスを保つのに非常に骨が折れよう。卑近な例が眼である。眼にゴミが入り、眼帯をしたときのことを思い出して欲しい。片目だと遠近感がつかめず疲労も激しく、不便このうえもない。口は一つしかないがこれはどうかと、疑問をいだく向きがあるかも知れない。口は一つだが、出口が下の方にある。これも揃っている。つまり、私たちの肉体は胴を中心にして、ちゃんとバランスされるようにつくられている。
右にも、左にも片寄らず、中道に沿っているのが人間の肉体であり、小宇宙を形造っている。宇宙は中道という意思の下にバランスを保っている。
合掌は、こうした精神的、肉体的構造の集約した姿を意味し、中道の象徴といえよう。
また合掌は、大自然――神への祈りでもあり、合掌によって、神と人、人と人との精神的交流がはかられる。神とは中道の意思であり、人と人との円滑な交流も片寄らない中道の心しかないはずであるからだ。
ここで、手のひら療法についていうと、通常は合掌し、精神を統一してから行うと治療効果は一層顕著になろう。理由は前述の意味合いから容易に理解出来よう。
手のひら療法の物理的説明をすると、肉体はまず細胞から成り立っている。病気は細胞の新陳代謝が十分に行われないためにおこるもので、細胞活動が不活発なのだ。病気を治すには細胞を活発にすればよい。つまり、手のひらから発散する生体エネルギーを患部に充電するのだ。手のひら療法はこうしてその効果をあげるわけだが、生体エネルギーの発散の度合いは、人によって個人差がある。それは前述の中道の精神にそった生活をしているかどうかによって、ちがってくる。
合掌はこうした意義を持っているが、形だけのそれではなんにもならない。要は、中道の精神を生かした生活が何よりも先決なのだ。
(一九七四年八月掲載分)