正法流布のスタート時は僅か二、三人であった。それが、ひと月、ふた月経つにしたがって人々が増え、普遍的な心について一人ひとりが発見するようになった。
人間がこの地上界に出生する以前は次元の異なった世界に存在し、さらにそれ以前には現在と同じように肉体生命を持って生活していたという事実を、皆さま自身の心の窓を開いた時にそれを知ることができる。
このことは物質界を見ると非常にはっきりする。一枚の紙には表と裏がある。つまり、陰陽二面性を持っており、その陰陽二面性はそのまま調和につながり一枚の紙を存在せしめている。私たちの肉体についても魂という普遍的な生命と同居し、生活しているのである。死は肉体と生命の分離であり、肉体は土となり、魂は次元の異なる世界に帰っていく。紙は灰になり、土になり、エネルギーとして大気に戻っていく。
仏教では色心不二ということを言っている。物理学では、質量と光の積は仕事を為し得る能力と説明している。その言わんとするところは共に同じである。
私たちの普遍的な生命は、実在界という四次元以降の世界よりこの地上界に自分自身が望んで両親を選び、経済的に豊かな環境に生まれるのも、不調和な環境を選ぶにしても、それぞれが望んで出てきているのである。出生の目的は、己の魂の向上であり、調和にあるのである。物質経済は生きるための一つの手段に過ぎない。地位や経済の多寡によって人格が定まるものではさらさらないのである。ところが、人間は自分自身の知恵に溺れ、物質経済の奴隷と化し、争いと闘争を生み出している。
私たちの魂は、この地上界に出生してくる時にはほとんどがあらゆる転生輪廻を繰り返し、神の子として、偉大なる丸く大きい豊かな心を所有していたのである。
人間の五体は母親の胎内で約三カ月目ぐらいでほぼ形成される。各人の魂はその時分になると、初めてその胎児の中に入り、人生航路の肉体舟について確認をする。この頃は母親に〝つわり〟という現象が出る。〝つわり〟とは、母親の意識と胎児の意識のズレが原因である。胎児への入魂は、各人が自ら選んだものである。
かくて十月十日、母親の腹の中で成長し、出産と同時に各人の魂は、実在界あの世と断絶する。出産はあの世から見ると死である。 乳児は一週間ぐらい経つと、教えないのに笑顔を見せる。これは実在界にいる魂の兄弟や友達が、乳児の前途を祝福したり、はなむけの言葉に対する応答なのである。厳しい物質文明の奴隷と化さぬよう、病める諸々の衆生を救う目的を果たすために、乳児の魂は笑顔を見せるのである。
私たちが小学校を出て中学に、高校、大学に進み、社会人として巣立つ時には、社会のため、己のためにと希望を持って出ていくように、出産の場合も、百人が百人こうした気概を持って出てくるのである。ところが、成長するにしたがい自己保存が育っていって、自我の虜になってしまう場合が非常に多いのである。
自我心の芽は肉体舟の五官(眼、鼻、耳、舌、身)によって培われていく。偉大なる仏智は次第に遠のき、闘争と破壊という不調和な環境をつくり出していく。人類の歴史は調和の日々より暗闘の歴史と言ってもいいのである。現代は資本主義と社会主義の二大思想が対立し、神の子としての本性はいつの間にか物質文明に集中され、武力は資本力に支配され、労働者は団結してこれに立ち向かうという争いの場を生み出している。争いの根本はすべての基準が物質経済におかれ、人間信頼という出産時の約束を忘れ去ってしまったからに他ならない。
しかしともあれ、私たちの一切の苦しみの根源は、他人でなく自らの肉体の船頭さんであるところの魂、己自身の心なのである。喜怒哀楽を生み出すものはすべて自身の心である。仏教やキリスト教は、このことを教えてきたのであるが、いつの間にか他力本願になってしまい、自分は楽して神に祈れば救われるという間違った方向に進んできたのである。
各人の心の中をひもといた時には、ある時は偉大なる大王として多くの人々を支配し、ある時はもっとも厳しい奴隷的な環境の中で修行して帰られた人もある。円には始めもなければ終わりもないように、私たちの生命はあらゆる体験を積んで、現在、地球上という環境の中でその本性を悟るべく修行しているのである。
ものにはすべて原因と結果というものがある。苦しみや悲しみ、病気にしても、そこには必ず原因があるものである。そこで、その結果を修正するには、先ずその原因を追求し、原因を正道に戻さなければならない。原因をそのままにしておいては、結果の好転は望むべくもないのである。歪な心が不調和な結果を生み出しているのだから、本来ある丸い大きな心にすべく、その原因を正道という物差しによって一つひとつチェックし、原因を作らないようにすることである。
今から2千5百有余年前に正法神理が説かれている。正法神理に添う生活は、中道という物差しで原因を取り除く反省の行為を怠らぬことであると。また、二千年前にもイエス・キリストが愛を説き、愛に生きるには先ずその罪を懺悔することであると言っている。反省も懺悔も共に同じである。仏教では反省を止観と言っており、禅定の基礎も中道に照らした反省にあるのである。
中道に照らした反省とその行為が生まれてくれば、間違った原因が取り除かれたのだから、神の光が降り注がれ、現象生活は自然と整ってくるのである。与えられているものを、自らの力によって慈愛の光を受けるのである。
偶像崇拝や祈りによって心の安らぎがあると思う人があるとすれば、それは逃避的なものであったり、自己満足、自己欺瞞であるといっても過言ではない。他力では決して人は救われることはないのである。
次に大事なことは、足ることを知った生活である。足ることを知らないがために争いが絶えないのである。足ることを知れば、自分一人がこの地上界に生きているのではないのだから、感謝の心も生まれてくる。この自然界は万生万物が相互に関係し、依存しながら生活している。空気があり、水があり、大自然があればこそ各人の肉体を保全することができるのだし、自然界のこの大慈悲に対して我々は無条件に感謝する心が生まれてくるはず。感謝の心は、行為によって人々に尽くすこと、社会に還元することである。感謝は報恩という輪廻によって初めてその意義が見出され、実証されてくるものである。世の中には感謝感謝と言いながら、行為という勇気に欠けている場合が多いが、報恩は勇気という行為なしには実を結ぶことは少ないのである。
形あるものは崩れ去っていく。すべては無常である。現在健康であっても、いつの日かその肉体は朽ち果て、やがて我々は実在界あの世に帰らなくてはならない。一切の責任者は自分であって他人ではない。自分自身がすべての根本である。それゆえ、人はあの世に帰っても個性を失うことはない。物理学の法則と同じように、等速度運動をしながらあの世に帰っていく。病気で苦しんでこの世を去り、その病気の原因を追求せずして肉体舟が破壊され、あの世に帰った時にはその病気の状態であの世に堕ちていくのである。
肉体はあくまで人生の乗り舟である。私たちの普遍的な肉体の船頭さんが魂であるということを知っていれば、肉体にまつわる執着は離れていくものである。その時の私たちは、平和な、そしてその心に比例した世界に昇っていくのである。 思うこと、行うことは、神によるところの善なる己の心の裁きにあっているのだということを知らなくてはならない。それだけに、その毎日毎日が、一秒一秒の心と行いの在り方が、真実に適ったものでなければならないのである。 ゴーダマ・シッタルダーは、六年の苦行の末、三十有余年の過去を反省する。一週間の反省ののち、一切の苦しみというものは自分自身がつくり出し、苦しみから解放されるには、苦しみの原因をつくらないようにすればよいことを発見していく。そうしてその後、四十五年間この神理を説き、その神理は後に中国に渡り、日本に伝わった。現代は偶像を拝む他力に変わり、信仰は形骸と化している。葬式仏教、観光仏教、学問仏教が今日の仏教の姿である。
しかし、人間の心というものは、そうした形骸化されたものでは決してない。一秒一秒の生活、心の在り方が信仰であり、勇気を持って修正する己自身にすべてが託されており、悟りの彼岸も、八正道という正道を行じる中にあることを知らなければならない。出産時を思い、悔いのない一生を送られたい。
(一九七二年六月掲載分)