今日は、反省ということについてお話してみたいと思います。仏教では反省のことを止観といいますが、とどまって見るということは、自分自身の想念と行為を冷静に省みるということなのです。私たちは人生航路の乗り船である肉体船に乗ってしまいますと、表面意識が10パーセントくらいしか出てまいりません。
また、生まれた環境、教育、思想、習慣に影響されて正しい基準を見失い、思うこと、行なうことの判断を誤り、心の中にスモッグを作り出すのです。
人々が正しい心の基準を見失い、社会が混乱の中にあるような不調和な環境を末法の世といいますが、そのような時代には人々は闘争と破壊の中に本性を忘れ、物質文明の奴隷となり、本来の人間性というものを失ってしまっているのです。
教育者が生徒と調和できず、生徒が先生の悪口をいってみたり、あるいは親の尊厳が失われ、子供の心ない行為をひき起こし、不調和な家庭生活をもたらしていることもあるようです。労働問題を見てもそうです。足ることを忘れ去り、闘争と破壊を繰り返す労使の姿は、お互いに自分さえよければよいという自己保存のぶつかりあいであり、そこには愛のひとかけらもありません。
正しい心の基準というものを教えるべき宗教家やあるいは精神教育を行なう人たちも、正しいという基準を見失い、知識だけのものになってしまっているのです。その結果、精神教育といえば、自分の立場に都合のよい考え方や自己保存的な考え方を押しつけるだけになってしまっているのです。つまり、自分に都合のよい正しさの基準を作り出している場合が多いのです。しかし、こういうものは決して正しいものではありません。
法というものは、諸法無我です。諸法無我であるということは、諸々の真理は我のないものだということです。法とは真理です。この真理というものは人間の知識によって変えることのできないものなのです。そしてその人間の我によって変えることのできないもの、すなわち私たちの住んでいる自然界の姿や私たちの肉体を生かしている法則の中に、人間の心と行ないのあり方を示すものがあるのです。私たちは自らの想念と行為の基準をその姿に負わなければならないのです。それ故に、国の法律や国際法のように、人間の意や知によって変えることのできるものは諸法無我とはいい難いものです。
このように自然界の姿そのものが、人間自身のあり方を教えてくれています。それが本来の仏教であり、キリスト教の本旨なのです。私たちは仏教においてもキリスト教においても諸法無我であることを忘れ、自分たちの意や知によって法を変えてしまったのです。そしてここから他力本願というものが生まれてきてしまったのです。人間はこうして長い歴史の中で正しい基準というものがわからなくなってしまったのです。
仏教でいう止観というものも現在では基準がわからなくなり、とどまってみることができなくなってしまいました。
反省とは、心の中の片寄った想念や行為をふり返って修正することです。本来、私たちの心は丸かったのです。私たちはその丸い心の中に数多くのひずみを作り出してしまったのです。私たちの意識の中には生まれたときから現在までのあらゆる善悪に関する諸問題が記録されています。
そして、神は盲目の人生を歩む私たちに、私たちが心の中で思ったことや行なったことの一つ一つを反省によって修正するチャンスを与えてくださっているのです。すなわち、反省は神より私たちに与えられている大慈悲なのです。昔のことわざに「過ちは、改むるにはばかることなかれ」という言葉があるように、私たちは過ちを修正することを許されているのです。
私たちは生身の人間なるが故に盲目なのです。その盲目の原因となるのは肉体船の目や耳や鼻や口、すなわち眼耳鼻舌身意という六根なのです。
それは、人生行路におけるあらゆる障害物を正しく判断するために与えられたものです。しかし、自分の目で見、聞き、嗅ぎ、味わい、触れ、想うといった、一つ一つの心の作用を通して、私たちはいろいろと不調和で一人よがりなものの考え方に到達してしまいます。そのために自ら苦しみや悲しみの原因をつくり、あるいは恨み、妬み、謗り、怒りという自己保存の心を持ってしまうのです。この自己保存という欲望をなくすためにも中道という片寄らない道を歩むことが大切です。中道とは私たち自身の心の中にある、己に忠実にウソのつけない善我なる心に従って生きることなのです。
私たちはなにか問題を起こし、それが悪い結果となったときに、自分の心はその悪い結果から逃げようとします。損をしたくないという、自己保存の立場からすれば、当然逃げることになります。それに対して自分が損をしてもいい、人のために尽そうとする心がありますが、それが善我の心なのです。
眼耳鼻舌身意という六根を通しておこる欲望がこの善我の心を失わせ、心にスモッグを作ってしまうのです。これは自己保存の思いです。自分さえよければよいという思いなのです。この思いが年を経るに従って徐々に強く出てきます。あるいはまた生活環境の中で自分自身の正しい心を忘れ、形だけを合わせて、心は逆を向いている場合もあります。これも偽りです。素直さがないのです。素直であるということもまた善我なのです。
しかし、気をつけなければいけないのは、片寄らない正しい基準を通しての素直さならよいのですが、人のいうことを何でも受身に聞くことを素直であると勘違いしてしまうことです。
私たちの心は永遠に変わらない自分自身なのです。しかし、肉体は有限です。私たちの肉体はいつの日か自然に帰ります。仮に私たちが、焼き場で焼かれてしまえば、三合の灰になります。灰になってもほとんどが二酸化炭素になり、空中に舞い戻ってしまいます。一部分のリン酸カルシウムは地中にもぐります。そして私たちの身体から出た二酸化炭素は再び植物の光合成という作用によって、その成長のエネルギー源に変わってしまうのです。
(次号につづく)
(昭和49年春、京都での講演の要旨をまとめたものです)