(前号より)
そして再び次の肉体を持つ人たちが、その植物から血や肉や骨となるエネルギー源を吸収することになります。このようにして、動・植・鉱物は、自然界の中に相互関係を持ち、調和しているのです。
ところが、私たちはその調和を乱してこの肉体が絶対だと思い込んでしまいます。肉体はあくまでも有限であり、地上に置いて帰らなければならないのが自然の法則なのです。
私たちの肉体はこのようにして滅びてしまいますが、私たちの魂は永遠に生き続けるのです。ところが、私たちは心の目で見ることができないために、この世とは次元の異なった実在の世界が存在することを分らなくなってしまっています。この世がすべてなのだと思っているのです。ところが、私たちは夜寝ているときに、あの世にたびたび帰っているのです。それが目が覚めてしまうと分らなくなってしまうのです。こうして私たちは、眼耳鼻舌身意という五官六根によって魂としての本当の正しい自分が見られなくなってしまい、欲望のままに人生を送ってしまうのです。
反省とは、自分の心の中のテープレコーダーを小さいときからひもといて自分の思ったこと、行なったことを一つ一つ正しい基準にあてはめて修正していくことなのです。反省ということを鉄の錆に例えて考えてみますと、鉄は非常に酸化しやすいものです。自然に放置しておくと、酸素と鉄の表面が化合して二酸化鉄、つまり赤錆に変ってしまいます。この二酸化鉄はすでに鉄の性質を失っていて、もとの鉄には戻らないのです。この錆びたままの鉄に、表面塗装しても、やがて、鉄の表面の錆が浮き出てきて、塗装の皮膜を破り、また赤錆が表面に出てきてしまいます。私たちの心と行ないも同じことがいえるのです。私たちの心の中にある小さいときからの過ちを処理せず、現在のものだけを反省すると必ず中からまた同じような思いが現われ、過ちを犯してしまいます。私たちは鉄の表面だけを塗装してきれいに装いたがりますが、その塗装は必ずいつかはがれてしまうのです。私たちはこのように反省をする際、表面だけをいくら飾ったところで、何にもならないのです。このように、反省も鉄の錆を処理することと一つも変っていないのです。
私たちは自分自身の生まれたときから今日に至るまで、自分の心の中に恨みや妬みや謗り、それに怒りというようなものによってひずみを作ってきています。そのひずみを修正するには、まず、自分自身の現在の性質や性格がどのようにして形成されたかということを生まれたときから現在に至るまで一つ一つ追求してみることです。そしてその一つ一つの錆をもとから落としてゆくことが大切なのです。その基準が諸法無我です。つまり、自然の法則、片寄りのない中道、すなわち八正道という物差しなのです。自分を中心にせず、相手のことをよく考え、正しく語り、正しく聞くことです。たとえ、どのような悪口をいわれても、また自分に都合の悪いことがあっても、感情的にならず、そういわれた原因がどこにあったのかということを、謙虚に正しく判断するだけの余裕が必要です。
反省は一遍にやろうとしても無理です。20年、30年、60年という人生の中で積み重ねられてきた心の中のひずみや垢を取り除くためには、少しずつ自分自身を正しい心の物差しを持って反省してゆかなければなりません。
また、私たちの反省には「ああ、こんなこともあった。これは八正道に照らし合わせてみると、いけないことだったんだ」というような反省が多くみられます。それだけでは実際はだめなのです。「ああ、ここに錆がある。これはまあ、この辺をなすっておいて、そのうちに塗料をつければなんとかなるだろう」と考えるのと同じです。必ず、いつかまた錆が出てくるのです。逆に、何かをやってしまったあとで「ああ、私はあんな悪いことをしてしまった。どうしよう、さあ、困った」と、自分自身を苦しめていくことがありますが、これも正しくはありません。反省で大事なことは、表面に出てきている事柄の根を取り去ることなのです。
反省をして「ああ、これが悪かったんだ。そして、その根っ子はここにあったんだ。これはもう二度と繰り返さないぞ」と心の中からそう思うこと、これが本当の反省といえます。このように未来を切りひらく反省の仕方が本当の反省なのです。
さて、反省が終ったならば、今度は瞑想です。瞑想の目的は、一日二十四時間の正しい生活を目指すものです。瞑想のための瞑想ではないのです。
私たちは今から眠りに入ろうとするときに一番心が調和されています。そのときは恨みも妬みも謗りも煩悩もすべて捨てており、自分の心の中に執着のない状態です。その状態に自分の心を持ち込むのが瞑想なのです。瞑想というと、普通は黙って目をつぶり、さまざまな妄想がおきないよう、つまり雑念がおこらないようにするものだ、と考えがちですが、これではいけないのです。瞑想はまず反省を繰り返し、神の光が届いたときに真価が現われてくるのです。
反省もせずにいきなり雑念を払う瞑想をする習慣が身につくと、いつ他界者が自分の意識の中に侵入してくるか分らないのです。したがって、反省は瞑想にとって絶対欠くことの出来ない基本的なことであり、心の曇りを取り除く唯一の方法なのです。
動・植・鉱物のエネルギーは肉体保存のために必要なのです。それに対して、神の光は私たちの肉体の船頭さんである魂のエネルギー源なのです。そのエネルギー源を忘れてしまい、欲望のままに生きてしまうと、私たちは不調和な人生を送ることになるのです。私たちは、反省、瞑想、反省と繰り返すことによって自分の心にエネルギーを蓄えることができるのです。反省や瞑想によって心や頭がすっきりするというのはその理由によるのです。
私たちは、この反省と瞑想を通して、自分というものをしっかり見つめ、人生を有意義に送ることが大切なことなのです。
(終わり)
(昭和49年春、京都でのご講演の要旨をまとめたものです)