(前号より)
太陽をごらんなさい。一秒間に二百万トンからの石炭を燃焼するほどの莫大なエネルギーを、この地球に無所得で与えています。もし太陽がなかったならば、私たちは生存できるでしょうか。その無所得の姿、行為そのもの、自然界そのものが神の心の現われなのです。
いま地球は、私たち一人一人の美しい心を必要としているのです。なぜならば、この地球というものは、広大な宇宙の中にあって、一つの小さな細胞にすぎません。その細胞を調和させていくためには、万物の霊長である私たち一人一人の心の集約された姿が必要となってくるのです。そのことはつまり、人生の目的である仏国土・ユートピアにもつながっていくのです。
人間は長い歴史の中で、国境という複雑なものを作り出しました。それは人間のエゴが作り出したものなのです。本来神の世界は一つであり、地球は一つです。人類はすべて兄弟なのです。同じ太陽の下に人間は皆平等です。
このように私たちは、末法といわれる複雑な現代社会の中で生活をしていますが、たとえどんなところで生活しようと、自分の本質を忘れてはなりません。そして、心の中が常に丸く豊かであるということが人生の大きな目的・使命なのだということを私たちが忘れたとき、苦悩を作り出していきます。また、その苦悩は心に曇りを作り、歪みを作っていくのです。
本当の意味の修行というものは、私たちの日常生活の中に存在しています。病気にしても、経済的な苦しみにしても、そのような体験はより豊かな心を作る一つのチャンスでもあるのです。それを通して、その原因と結果を知ることが大切です。その中から、心の中にある偉大なる神の智恵、神の光を涌現することが大事なのです。
人間は万物の霊長であるにもかかわらず、偉大なる神の智恵を自ら放棄しています。それも体験です。その中から、自分はこれでいいのだろうかと悩み苦しんで壁にぶつかり、やがて自分の間違った心の歪みは修正されていくものなのです。しかし、私たちは皆、偉大なる魂です。それを自覚するためには、自分自身を常に正し、日常生活をより豊かにし、心の中から出てくる愚痴、怒り、妬み、こういうものを自分の心や生活から取り除くことです。
愚痴っぽい人というのがいますが、愚痴は自分の欲望が満たされないために出てくるのです。その愚痴は自分自身の心に大きな曇りを作り出し、苦しみを作り出すということを知らなくてはならないでしょう。
怒りっぽい人の場合は、まずちょっと待てと、この怒りを直接相手にぶっつけたら一体どうなるだろうか、自分が逆の立場に立ったら一体どう思うであろうかと考え、思いやりの心を持って事にあたったならば、怒りの心など出ては来ません。
〝叱る〟と〝怒る〟というのは別です。叱るということは愛です。相手自身をよくしようとして厳しい言葉を言うことは叱ることです。怒ることは自分中心の思いです。欲望です。つまりは、思うようにならないから怒るのです。それは許されるものではありません。
そのような、怒る心、妬む心、そしる心というような心の思いはすべて、心の中にあるテープレコーダーやビデオテープに記録されていきます。そして、いずれこの地上界を去るときに、私たち自身の善我なる心がそれを裁くようになるのです。それから逃れることは誰一人として出来ないということを知らなくてはなりません。ですから決して自分の心の中に毒を作らず、呑んだりもしないことです。
悪口を言われても感情的にムキになり、仕返しをしてやろうなどと思わずに、相手が言うなら、その原因、理由をよく知って、許してやることもまた愛だということを知らねばなりません。
こうして私たちは常に自分の生活を正して、毎日の生活を豊かにしていくことが大事です。
そのようにして、信じると信じざるとに関わらず、普遍的な真理は、人間の心の中に誰も種を播かれているのです。その種が一つのきっかけによって心の中で花開いていきます。
私たちは、まず間違った考えから自らを解放することです。そして、自分自身を信ずることです。噓のつけない自分を信じ、それに添った生活をすることです。自己保存、自我我欲の思いは、小さな自分を作ってしまいます。逆に、お互いに助け合い、協力し合い、補い合う愛の行為が私たちの心を限りなく豊かにしていきます。
心は、神の世界において、すべて同根であり、全人類は皆兄弟なのです。皮膚の色による差別や国境などといったものは、愚かしいことです。皮膚の色が違うのは、その国々の気候風土に合わせて神が作られたからであって、同じ人間に変わりはないのです。その肉体舟に乗っている魂たちは、すべて兄弟であり、同じなのです。
そのようなことを知ったとき、私たちは小さな世界から脱皮し、自分をより豊かにしていくことが、私たち自身の生きる道であると知るでしょう。 そして、やがて好むと好まざるとにかかわらず、自覚しなければならない時が来ることを知っておいて下さい。
(終わり)
(昭和51年春、名古屋でのご講演を要約したものです)