本部長 山本 邦男
私たちは、高橋信次先生の説かれた神理正法を見聞して、当初「疑問を持ちなさい」と促され、私は魂を見たことがない。霊魂なんてあるのだろうか。転生輪廻の記憶もないし、神の存在も実感がない。語られるお話の内容は、自分の智識の中で理解できるところもあり、親が一緒で遺伝子も同じなのに、兄弟姉妹それぞれが考え方や性格が違い、好き嫌い、芸術の才能、上手下手など肉体の継承だけで考えても答えが出せず、俗に言う「持って生まれてきた」とする魂のところまで行き着きます。
また、大自然の営みや星々の動きが、大調和と生命に息吹を与えていることに気付きます。太陽は、誰にでも平等に熱と光を与えている。分け隔てがないなど、神理正法として語られる一言一句が、なるほどと思える教えであり、理解できることから実行、実践していくと、その結果が現れ、安らぎもイライラも、想念行為によるものだと自覚できるようになり、良い結果が出た方向に舵を切るようになります。その体験によって信が芽生え、また、神理正法を見聞した友や仲間が転生輪廻の記憶をよみがえらせ、その時代の言葉で語り出すのを見て、聖書や仏典に書かれている現証を目の当たりにします。自分が永遠の生命であり、両親との約束のもとに肉体舟をいただき、神仏に誓い神の子としてこの地上界に生まれてきたことを信じられるようになります。
正しさの基準も、差別意識があった私でさえ、太陽が神の心の表れであり、平等こそが正しいと思えるようになり、正しさの基準が理解できてきます。年月を重ねることによって、自分の正しさの基準も高い次元の神理正法に則った考えへと変わっていきます。
自分が何気なく語る言葉にも、偏見があったり思い込みがたくさんあり、以前の私は、日本のプロ野球を見ていた時、海外より助っ人を雇い入れてチームを強化しているのを見て、「日本のプロ野球なのだから、外国人を雇える経済力のあるチームが強いチームになるので、日本の選手だけで戦わないと不公平だ」と文句を言っていました。
30年が経ち、日本の選手が海外で活躍する時代を迎え、己が正しいと思っていた考え方にも変化が生じ、「あの時、正しいと思ったことは何だったのか」と思うようになりました。そして、「時代や時とともに変わるものは、正しい基準ではないですよ」と言われた高橋信次先生の言葉がよみがえります。私の正しさの基準も、人々と接し、年月とともに多くの経験や智識を蓄えることによって、少しずつ物事の真実が見られるようになっていきます。
イエス様が「己の頬を打つ者があれば叩かれなさい。頬を打つ相手の手も痛いんだよ。まして相手の心は怒りに燃え、苦しんでいるんだよ」と諭す場面があります。正しさは、その方々が持つ心の器によって、表現や行動が変わってきます。イエス様が十字架にかけられた時、「神よ、彼らを見捨てないでください。その成すところを知らざるならば」(自分が何をしているか、わからないのです)と、自分を十字架にかけた人々のために祈られます。
このように聞きますと、己の常識からは大きく離れ、心の器の違いを認識できます。
私の話になりますが、車に乗っておりますと、たまに黄色信号で交差点に進入し、赤信号で出ることがあります。なぜそのようになるのかを反省して考えますと、私の心の動きが見えてきます。
前方の信号を見ます。赤ならブレーキを踏み止まる準備をして、前の車に当たらず、または停止線に合わせて止まります。問題は、前方が青信号の時です。私の心は、青信号の間にその交差点を通り過ぎたいと思います。その思いに執着しますと、前の車との車間距離を詰めたり、スピードを上げたりして、周りの状況が見えなくなります。子供や人が飛び出してくるかもしれないという思いやりや調和の心は消え去り、自己保存、自我我欲が己の心を支配します。一事が万事で、しっかりと己の心を意識していないと、慈悲と愛、調和の心よりかけ離れ、自分を見失うことになります。
日々の生活では、人々に寄り添った運転を心掛けているのですが、何か、きっかけがあれば、肉体舟の五官六根に振り回される自分が顔を出します。運転中の心の動きを反省して、自己保存、自我我欲に心のスイッチが入る原因がわかると、調和ある行動ができます。
小さな反省ですが、いたる所に自分の性格が出ており、その反省の積み重ねが、明日のあなたを作り出します。













