私たちはこれまで信仰というものは、お経や祝詞をあげ、讃美歌を歌い、曼陀羅や仏像を拝むことであるというように思ってきました。
そして、祀られているものの実態を確認することができないまま、神様というものは遠いところにあって私たちの望みをすべて叶えてくれる存在であると考えてきました。
しかし、信仰すればするほど疑問がでてきます。そしてその解答を得ないうちに経済的に苦況に陥ったり、病気をしたりすると、これはまだ拝み方が足りないんだ。あるいは、別の神様の方がいいのではないか、などと考えます。人によっては拝み屋さんのところへ行き、あなたには先祖が憑いているから、先祖供養をしなさい、とか、お金を積みなさいなどと言われて少しずつ泥沼の中に入っていく人もいます。
神は決してそのようなことは申しません。私たちは他力本願によって救われたりはしないのです。なぜなら、神はすでに私たちが地上界に肉体を持って生活できる環境を用意し、無償で提供してくれているからです。
昔から信仰している人たちの中には、毎朝毎晩、お経や念仏をあげている人がいます。これを一万偈あげれば人間は救われるなどという人もいますが、世界中でこれで救われた人は一人もいません。錯覚をおこしているだけなのです。
法華経などもその根本は、最初は天台山において天台智顗が法蓮華僧伽呪(ほうれんげさんがんじゅ)として説いたのです。法とは仏の心、仏の意思、宇宙の神理であり、蓮華とは汚ない泥沼の中においても美しい蓮の花が咲くのと同じように、人間の肉体というものも決してきれいなものではないが、しかし、心というものは宇宙の神理を知って日々の生活をしていたならば、あの美しい蓮の花と同じように、安らぎのある調和された境地に到達するのだ、このように説いたのが法華経の根本です。
これを八世紀に日本から留学した最澄が比叡山延暦寺で妙法蓮華経として日本流に改めました。つづいて日蓮は南無妙法蓮華経とその上に南無の字をつけました。しかもそれを曼陀羅まで下げて拝むようになってしまいます。曼陀羅というものは飾りものとしてならいいでしょう。しかし、拝む対象ではないのです。南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏の真理を即生活の中に生かしたときに初めて仏教といえるのです。
現代仏教の多くは他力化し、念仏を唱え、曼陀羅を拝むことが信心であるという間違った方向に進んでいます。その姿はもうすでに末法です。
そしてまた現代社会の経済問題を見ても同じことがいえます。去年(昭和四十八年)の九月から十二月ごろの間においては日本中、大騒ぎをして、石油危機、エネルギー危機といっていましたが、実際は前年の同時期以上の量の石油が入っているのです。一昨年(昭和四十七年)の十二月の状態と比較すると約22%多く輸入されております。ところが、人間というのは不思議なもので、足りない、といわれるとついついその気になってしまうのです。
しかし、人間が本当に足ることを知り、消費者が真剣に自分の生活を擁護しようとするならば、企業でも現実に合わない物価値上げはできないのです。私たちは人間としての心を失い、目先の欲望ばかりに心をとらわれて本当の自分を忘れているのです。トイレットペーパーの買い占めにしてもそうです。実質的に去年よりも増えているものが足りないといわれるのは何故でしょうか。また、大企業を見てみますと、ある会社は、三百億、四百億と利潤を上げておりながら値上げの意向を示しております。これは私たちにとって真剣に考えるべき問題です。
こうして、人間自身のただ儲けようとする欲望が結局は自分の首を締めてしまうのです。現代社会を本当に救い得るものは物質ではありません。経済でもありません。その証拠には東南アジアから日本が嫌われているのはどういうわけでしょう。人間の本質を知らないからです。日本人は豊かな経済力を持って南方に行き、企業をつくります。しかし、日本国民であるという優越感が先に立ち、その国の人々と対話しようとしません。一人よがりであり、自分さえよければよいというエコノミックアニマルになっているのです。嫌われるのは当然のことです。このようにして豊かな文明の上にあぐらをかいていますとアメリカも日本も次第に外国から批判されるようになっていきます。アメリカや日本だけの問題ではありませんが、両国に共通する原因はやはり人間として大切な心の本質を見失っているというところにあるのです。
戦後、人間の正しい生き方について教える場がなくなってしまいました。人生とは何ぞや、人間とは何のために生まれ、年をとり、病気をするのか、このような重大問題もわからなくなっております。
それでは神とはどういうものなのか、人間とはどうあらねばいけないのか、検討してみましょう。
私たちが住んでいるこの地球の七一%は海洋、河川、湖沼、という水圏です。表面に出ている陸地はわずか二九%足らずです。その中に三十数億の人間がひしめいているわけです。本来、自然というものはすべて調和されるようにできております。しかし、その調和も人間が我欲に基づいて物質至上主義に走ったために破壊され、公害という名の大気汚染や河川の汚染、そして海の汚染というものをひきおこしています。心を失った人間は、自らの住む世界を破壊していくのです。
(次号に続く)
(昭和49年1月13日、大阪での講演の要旨をまとめたものです)