私たちの心というのもは、無限に広く、一念三千といって、思った世界に自由に通じるのです。悪を思えば悪の世界に、善を思えば善の世界に通じる。一念三千を角度をかえて解釈しますと、人の心の無限性、つまり自由を言っているのです。しかしその自由な心を悪につなぐと、やがて自分自身の首をしばることになるのです。
法律というのは、社会秩序を維持するために一つの菩薩心のあらわれとして、人間がつくったものです。だから、ある程度の行動は、国の法律によってコントロールできる訳です。しかし正法から見た善悪は、行為を動かす心を問題にするのです。ですから、私たちの心の中で思うこと、その法則が見失われた時を末法というのです。末法の時代には、人間はお金や地位や名誉、物、そのようなものが絶対だと思うことによって偉大なる神の子としての価値を忘れてしまい、その中から苦しみをつくり出すようになってしまうのです。お金があれば人間はすべて幸せになれると私たちが思うならば、なぜ、経済的にゆとりのある人びとの中にも苦しみがあるのでしょうか。
お金というものは、あくまでも人生を理解し豊かな心を作るための一手段にしかすぎないのです。人間は生まれてきたときに、お金を持ってきた人など一人もおりません。また死ぬときに財産を持ち帰ることのできた人がいるでしょうか。むしろ、残したその財産によって、今まで仲のよかった兄弟たちに争いと闘争の種をまいていくことになる場合が、多いのではないでしょうか。
私たちは、物質や経済が絶対なのだと思ったときから苦しみを背負ってしまうと思わなければなりません。人間が真に救われる道は、決して物質を所有することではないのです。マルクス主義やあるいは資本主義でもありません。資本主義やマルクス主義は物質経済が根本となっているために、人間の尊厳を忘れ去っているのです。私たちは偉大なる心の尊厳性を知ったならば、物質文明をいかに利用して豊かな調和された国をつくり、世界をつくるかということが大切なのです。
人類は自らつくり出した物質文明によって、より豊かな環境をつくり出そうとしました。ところが結果は偉大な心の尊厳を忘れ去り、形式的宗教に心のよりどころを求めたのです。その結果として、いつしか形式的、他力的なものが生活の中や習慣の中に根を下ろしてしまったのです。人間は強がりを言っていても、あるときに病気や経済的な苦しみに会うと、それから逃れようとして、神社仏閣、あるいはまた拝み屋のところへ行くのです。それを他力本願といいます。しかしその他力本願によって本当に私たちは心の苦しみや、経済的な苦しみを除くことができるでしょうか。他力本願によっては絶対に人間は幸せにならないのです。
私たちが、スモッグをつくり出さなければきれいな太陽の光や空気を受けられるように、苦しみや悲しみはすべて自分自身の偏ったものの考え方や行いがつくり出したものなのです。心を失ってしまった思想や他力本願の宗教などは、意識まで腐らせてしまうために、かえって苦しみの原因をつくりだしてしまうということなのです。大宇宙に対する感謝の心、人びとの心と心の調和によるその道を実践することこそ、本当の仏教であり、イエス・キリストの愛の道なのです。
神というものは宇宙そのものです。太陽は1秒間に9.3×10²²キロカロリーのエネルギーを宇宙空間に放射しています。そして毎秒数100万トンからの石炭を燃焼しただけのエネルギーを無償で地球に与えているのです。1グラムの物質をエネルギーに変えると、1馬力(746ワット)のモーターを約3千800年間回し続けることができます。太陽をこわして地球をつくれば、33万3千個もできるのです。いかに太陽のエネルギーが莫大なものであるかがわかるでしょう。その太陽のエネルギーは無所得です。一厘一毛のお金さえ、私たちから取る訳ではありません。この太陽のエネルギーが自然の中のすべての恵みをつくり出しているのです。そしてまたすべての細胞、物質にも生命が宿っているのです。私たち人間はそうしたエネルギーという生命の大海の中で、呼吸していることを知らなくてはなりません。
私たちが吐き出す二酸化炭素は、植物によって吸収されます。植物は二酸化炭素を栄養源として太陽の熱・光の合成によって澱粉や蛋白質、脂肪、糖分をつくるのです。また、それらが私たちの血や肉や骨になってゆく訳です。私たち自身の排泄物もまた、エネルギー源として植物の体をつくり出しています。すなわち太陽は、私たちに何も請求することなく、万生万物を大調和させているのです。
こうして大自然は無言のうちに私たちに感謝の心を教えています。しかし私たちはその自然に対して、ただ感謝するだけでいいのでしょうか。なぜならば大自然のルールによって、すべては輪廻しているからです。感謝の心は報いる行為によって輪廻していくのです。動物も植物も相互関係を保ちながら存在しているのです。ですから人間関係においてもお互いに手を取り合い、助け合って大調和へと歩むことが大切なのではないでしょうか。
今、私たちは自らの魂を調和するとともに神の体であるこの地上界に平和なユートピアをつくり、お互いに心を開いた噓のない生活環境をつくることが大切なのです。それこそが人間のなすことです。そして、それが本当の神に対する感謝であり、また先祖に対する供養であり、報恩の姿ということになるのではないでしょうか。
自然の心、神の心はこのように無所得のままに大調和を教えております。大自然の意識、大自然の心そのものが神なのです。末法の世になってしまうと「正しい」という心の基準がわからなくなってしまい、仏壇や神棚、また神社仏閣にお詣りして経文や祝詞を上げたりすることが信仰であり、信心であると錯覚してしまう人びとが多くなるのです。神というものは祭られたものでしょうか。
大神殿、大仏殿を造ることによって神が存在するのではないのです。この地球そのものもまた、大神殿である神の体の小さな一部分にしかすぎないのです。その中になぜ浄財でそういうものをつくらなければならないのでしょうか。私たちはこのへんに信仰の大きな間違いがあるということを知らなくてはなりません。正しい信仰とは、私たち自身の心の中に偉大なる大神殿をつくることなのです。正しい法という神の心をしっかりとつくることです。五官を通して聞くこと、見ること、思うこと、語ること、毎日の仕事をすること、念ずること、これらのことを正しい中道の心を物差しとして判断し、そして自分自身の生活を律することが大切なのです。
(次号につづく)
(昭和50年2月、京都でのご講演の要旨をまとめたものです)